インタビュー

第2回「コミュニティの絆重視した移転計画」(石川幹子 氏 / 岩沼市震災復興会議 議長、東京大学大学院工学系研究科 教授)

2012.01.04

石川幹子 氏 / 岩沼市震災復興会議 議長、東京大学大学院工学系研究科 教授

「復興グランドデザインに愛と希望を」

石川幹子 氏
石川幹子 氏

津波で押し流される航空機! 東日本大震災による津波被害を伝える映像の中でも、仙台空港の様子に衝撃を受けた人は多かったのではないだろうか。滑走路の一部を含め、空港に接する宮城県岩沼市も津波で死者183人、家屋の全壊718戸、半壊1,310戸、被害のうち1,240ヘクタールという大きな被害を受けた。その岩沼市で「愛と希望」を掲げる復興計画が進んでいる。日本学術会議会員として、被災地に対する「ペアリング支援」をいち早く提言し、さらに岩沼市震災復興会議議長として「岩沼市震災復興計画グランドデザイン~愛と希望の復興~PDF」をまとめ、具体的な支援活動に取り組む石川幹子・東京大学大学院工学系研究科 教授に、郷里でもある岩沼市の復興状況について聞いた。

―復興計画づくりの最初に重視した「亡くなられた方の住所と遺体が発見された場所を地図に示すこと」の意義をもう少し詳しく聞かせてください。

これは岩沼市に限ったことではないと思われますが、今、津波の被災地で大変混乱を生んでいるのは、海のそばに住みたいという方と、海のそばから離れたいという人に分かれていることなのです。海のそばでたくさんの方が亡くなられたけれど、それでもそこに住みたいという方と、ここはもう怖いから嫌だという人がおられます。私は漁業者のように海から離れては暮らせない方は、当然、海の近くに住むべきだと思います。でも、そうでない方、高台に移ってもいいという方は海のそばにいる必要はないわけです。

海の近くに住まざるを得ない方は、逃げることを考えて、逃げるという自己責任において住むという決断をしなくてはなりません。その決断をする時に必要とされるのは、やはり情報です。津波の高さが何メートルだった、などという情報より、この場所で何人が亡くなったか、という情報の方がはるかに分かりやすく、大きな意味を持つのです。

それから、津波によってその場所が何メートルの深さまで浸水したか、という面的な情報も大事です。国がかなり大きなお金を予算化してくれましたので、被災実態調査ができましたが、その中でも一番大事な項目として津波による浸水の深さを示す地図はつくるべきだと考えました。昔は大変だったと思われますが、今はGPS(衛星利用測位システム)やGIS(地理情報システム)があって非常に簡単になりました。建物が全壊した区域、半壊した区域とこの地図を比べることで、建物の被災状況がよりはっきりと分かります。

―こうした地図をつくるのと並行して、どのような具体的な取り組みを行ったのでしょうか。

非常時に大事なのは原則を決めて、優先順位を決めることです。時間との競争ですから、あれもこれもはできません。何を一番早くやるべきかといえば、当たり前のことですけれども、被災された方の基本的人権を守り、いかに速やかに救済するかです。最優先にやるべきことを7つ決めました。
第一に挙げたのが「速やかな仮設住宅の建設と暮らしの安定」でした。家を失った被災者が最初に行くのは避難所です。学校の体育館などで、これはとりあえず雨露をしのぐだけですから、家族が暮らせる仮設住宅を用意することが、最初にやらなければならないこととなります。岩沼市は6月3日に希望者全員に鍵を渡しました。3カ所、合計384戸の仮設住宅を造り、希望する被災者の入居、避難所の廃止を被災地で、一番早く実行したのです。

仮設住宅の中で、緑豊かな生活を楽しめるような支援も必要です。それぞれ小さな庭を設けてトマトやネギ、ヘチマなどの栽培や、ヘチマやニガウリで住宅壁面に緑のカーテンをつくれるような設計としました。また、仮設住宅そばの総合福祉センター内にサポートセンターを設け、高齢者や障害者などのさまざまな相談を受け付けて、仮設暮らしによる孤立や引きこもりを防ぐ「交流拠点としての役割」を持たせています。

同じ時期にやったことが集団移転です。海岸にほぼ並行して掘られている貞山堀の東側の集落は全部津波で壊滅しました。貞山堀というのは、400年前に伊達政宗が江戸に米を運ぶために造った運河です。日本で一番長い運河で、運ぶ途中の米とともに貞山堀の西側に広がる水田、穀倉地帯をきちんと守るため、正宗はクロマツを植えた防潮林も造りました。これが壊滅した結果、堀の東側だけでなく西側の一部の集落も津波の力に抗うことができず全部破壊されてしまったのです。

この区域の人々から「もうここには住むことはできない」と、集団移転の希望が4月の初めに出されました。その時、井口市長の対応がとても立派だと思ったのは、「移転先は決まっていないが、とにかく全力でやる」と表明されたことです。集団移転が本当にできるかどうか分からない時期にもかかわらず、希望を重く受け止めた決断でした。それで、5月7日の最初の復興会議で集団移転が決まったのです。今考えてみますと、岩沼市の復興計画が混乱なく来ているのも、最初に集団移転を決めたことで被災者の方に迷いがなくなったからではないかと思います。

―集団で移転するとなると、移転先は簡単に見つからなかったのではないでしょうか。

もちろん全く当てもなく決めたわけではありません。大学としても綿密な調査を行いました。幸いなことに、市の倉庫に地形、地質、土壌の生産性などを調べた1992年の土地条件調査資料があったのです。どこの農地の土壌がよいか駄目かといったことが書いてあるのです。ゼロからこうしたことを調べるというのは不可能だったでしょうが、この調査資料が大変役に立ちました。
岩沼市というのは、今回、津波被害が大きかった海側の地域、昔から開けた中央部、奥州街道沿いの地域、さらに山側の3つの町が1960年に合併してできました。集団移転を望んだ海側の地域の方々は、集落として一緒に移りたいという希望を表明しました。江戸時代から続く集落ですから、ばらばらになりたくないという気持ちはよく分かります。

一方、移転先を考えると、山側の地域は山を削らないと移転先は確保できません。遺跡もたくさんありますし、無理ということになりました。奥州街道沿いの地域も、ばらばらなら移転できないこともないのですが、100戸とか200戸が丸々集団移転するとなると、それだけの広さを持つ場所はありません。残るのは同じ海側の地域しかなく、この地域は津波で完全に破壊された所とそうでない所がいまだに存在します。

小学校や公共施設が津波の被害を免れた玉浦という地域があります。仙台空港に近いこともあり、自動車部品工場などいろいろな産業が立地している地域です。今、失業者が出て大変なので、ここに新しい産業を持ってこようというのが次の段階の話ですが、いずれにしてもこの地区を集団移転先としようということになりました。

集団移転先は貞山堀の西側に当たる区域で、移転先ではエコ・コンパクトシティの形成を基本的な考えとした町づくりを進めます。エコ・コンパクトシティというのは、日本学術会議の土木工学・建築学委員会国土と環境分科会が9月1日に公表した提言「持続可能社会における国土・地域の再生戦略」にも盛り込まれている考え方です。生活しやすく、災害に強く、地球環境の保全にも貢献でき、しかも自治体の財政負担も少なくて済むコンパクトな町づくりを目指すものです。

集団移転先にすぐ移ることはできませんので、まず市の中心部に造られた仮設住宅に入っていただいたのですが、ここで大事なことは、仮設住宅を決める際も抽選という方法をとらなかったことです。仮設住宅への入居も、その後の移転先も集落ごと同じ所に移ってもらうということです。コミュニティの絆を何より大事な財産として、復興計画の中で生かしていこう、というのが基本的な考えだからです。

ここに至るまでに、井口市長のリーダーシップに加え、7つの地域リーダーの方たちの気迫に打たれました。集落はなくなったけれど、自分たちのコミュニティは何としても持続させていこうという強い気持ちです。

こうした地域リーダー、市長、さらに私たちのような第三者、このうちのどれか一つだけでは、うまくいかなかったと思います。

(続く)

石川幹子 氏
(いしかわ みきこ)
石川幹子 氏
(いしかわ みきこ)

石川幹子(いしかわ みきこ)氏のプロフィール
宮城県岩沼市生まれ、宮城学院高校卒。1972年東京大学農学部農業生物学科卒、76年米ハーバード大学デザイン学部大学院ランドスケープ・アーキテクチュア学科修士課程修了、94年東京大学大学院農学系研究科農業生物学専攻緑地学博士課程修了。工学院大学建築学科特別専任教授、慶應義塾大学環境情報学部教授を経て2007年から東京大学大学院 工学系研究科都市工学専攻 教授。博士(農学)。日本学術会議会員。専門分野は都市環境計画、ランドスケープ計画。岩沼市震災復興会議議長のほか、宮城県震災復興会議委員も。03年欧州連合(EU)国際基金21世紀の公園国際競技設計1位、08年四川vl川大地震復興グランドデザイン栄誉賞受賞。主な著書に「都市と緑地」(岩波書店)、「流域圏プランニングの時代」(技報堂)、「21世紀の都市を考える」(東京大学出版会)など

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