インタビュー

物理講義編「クォーク発見への道」(Jerome I Friedman 氏 / ノーベル賞物理学賞受賞者)

2006.09.28

Jerome I Friedman 氏 / ノーベル賞物理学賞受賞者

スペシャルインタビュー

Jerome I Friedman 氏
Jerome I Friedman 氏

ノーベル物理学賞を受賞したフリードマン博士が自らを語る、サイエンスポータルスペシャルインタビュー(全4回シリーズ)

ケンダルも私も、ホフシュタッターの研究室で電子散乱実験をとおして教育を受けました。私たちがMITで働きはじめた当時、MITはハーバード大学と共同で電子加速器を作ることになっていました。装置の名前は「ケンブリッジ電子加速器」でした。ケンダルと私はその加速器で電子散乱実験を行うことにしたのです。

電子散乱で大切なのは、電子が(陽子中性子の核子や中間子とは異なって)空間的広まりをもたない、というところです。つまり、電子は最も単純な構造の点状の素粒子であるということ、それから、電磁相互作用のもとの電子の振る舞いがよくわかっている、という点を活かして、電子をプローブ(探針)のように使うことができる、ということです。

そのため、電子散乱の様子を観察することによって、原子構造を精査することが可能です。加速器で加速された電子を使った、極微構造探索用の電子顕微鏡、というわけです。

ところで、極微構造を調べるためには、それにつかうプローブ粒子のエネルギーに注目する必要があります。小さな物質を見たり、その構造を理解したりするためには、問題にする構造のサイズよりも短い波長の光を用いなければならない、という観測原理です。そうでなければ、対象のぼんやりとした映像しか得られません。

量子力学では、電子は光と同様に波長を持っていることが分かっています。この波長は、電子でも光でも、エネルギーが増大するほど短くなります。が、自分たちで制御した環境で高いエネルギーの電子をつくるほうが、光でそれをするのにくらべてはるかに容易で、その仕事が当時始まっていました。

このやりかたで別のグループが既に陽子の研究をしていたものですから、「ケンブリッジ電子加速器」では私とケンダルは、まず、重陽子の研究を手がけました。つぎに陽子の研究に取りかかりたかったのですが、当時は他のグループが既に実験で加速器を使っていたため、ケンブリッジの装置を使うことができなかったのです。そこで私たちは、いっそのこと、もっと高いエネルギーの別の加速器での実験に打って出るほうが良い、と決意しました。

その別の加速器とは、当時スタンフォードで建設中の、「スタンフォード線形加速器」、SLACのことです。こうして、1963年頃だったと思いますが、ケンダルと私はスタンフォード線形加速器センターのための測定器の開発をしていたグループとの共同研究を始めました。ちょうど加速器の建設が始まった頃でした。

私たちは、スタンフォードとカリフォルニア工科大学の物理学者たちと共に実験をするために、散乱分光計や様々な電子機器を開発したのです。そして陽子の構造を研究するプロジェクトに従事しました。私たちは、ごくごく小さなスケールでは陽子はどのように見えるのか、それを知りたいと思ったのです。そのために弾性散乱と呼ばれる反応過程を研究しました。

ですが、これといったものは発見できませんでした。過去の研究からわかっていたのと大体同じことが、より高いエネルギー領域、つまりより小さい空間領域でも、引き続き起こっている様子が見えただけでした。

では、次に何をすべきか、を考えました。そこで、数人でしたけれども、こんどは陽子の非弾性散乱を見てみようと決めました。非弾性散乱とは、弾性散乱とちがって、標的の陽子がばらばらに破壊される過程です。陽子がその内部の状態を変える非弾性散乱の過程で何が起こっているのか、それを見ることになるのです。

この過程については、当時ほとんどわかっていませんでした。海のものとも山のものともわからない分野だった、と言って良いと思います。実際、非弾性散乱プロジェクトをスタートさせた当初、あまりにも見込みがなさそうだったものですから、カリフォルニア工科大学のグループは降りてしまいました。私たちMITのグループは、私がホフシュタッターのところにいたころからの旧友リチャード・テイラー率いるSLACグループとの協力のもと、この仕事を続けました。

実のところ、私は何人もの極めて高名な人々から、これは時間の無駄だ、と諭されました。これといった成果を出せるわけではないのだと。実験を行うための基礎となる理論的予測を立てる理論家も、なかなか見つかりませんでした。仕方ないので、電子を陽子にぶつけて非弾性散乱が起きたらどうなるのか、についての極めてあらっぽい定式化を自分でやったほどです。

そこでいざ計測を開始すると、散乱断面積のデータとして、予測していたよりだいぶ大きい数値が出始めました。予測の5倍、そして10倍、といった具合です。ただこちらの自前の予測は、あくまでも非常に大まかなものでしたから、5倍あるいは10倍ずれていても最初はそんなものか、といった雰囲気でした。しかし結論として、散乱断面積は予測の百倍も大きかったのです。

散乱断面積とは、散乱確率を別の単位で表したものです。それが予想より千倍も大きいということは、予想していたのとは違う現象が起きているのではないか、と考えるべきでしょう。データを分析しますと、我々の電子は陽子中に一様に広まった電荷から散乱されるのではなく、空間的に局在した点電荷から散乱しているよう見えました。

まるで陽子が、電荷を持つ荷電点粒子で構成されていて、そこから電子が散乱しているかのようだ、という描像です。当時、いわゆるクォーク模型というものはすでに知られていました。しかし、ほとんど支持されていませんでした。理由はいろいろあったのですが、ここでははしょりましょう。

ほとんどの研究者グループは、クォーク理論をあくまで数学的な説明であると捉えており、実体を持たないものだと考えていました。この模型では、陽子は二つのアップクォークと一つのダウンクォークによって構成されています。クォークは整数でない、1/3とか2/3といった半端な電荷をもち、固有角運動量(スピン)1/2をもつ点粒子、とされていました。そういうなか、我々はまず陽子の中に点のようなものを発見したわけです。

次にそれらのスピンを測ってみたのですが、するとこれが1/2とわかりました。俄然これは、となってきます。つぎに、次に「それら」の電荷を測ろう、ということで測定解析を行いました。技術的に細かい話になりますが、その結果、もし「それら」がクォーク模型で言われるような電荷を持つならば、「それら」は陽子全体の運動量の約半分を担っている、ということがわかりました。

ということは、陽子のなかには「それら」以外の何者かがまだ存在して、残り半分の運動量を担っているはずだ、ということです。これについては、CERNのガルガメル泡箱を使ったニュートリノ散乱計測によって、クォークが持つ陽子の推進力の比率はその半分であることが再検証されました。これらの結果、私たちの観測事実がクォーク模型と一致することがはっきりとわかりました。

つまり全てが腑に落ちたのです。これはクォークに間違いないと。いくら大半の人がクォークの存在を信じないと言おうとも、これは間違いなくクォークの特性を持っていました。私たちの発見はそういうふうにして起こった、というわけです。そこに辿りつくまでには何年もの時間がかかりました。

1967年後半に計測を始めましたけれども、CERNの実験でのクォークが担う運動量成分が全体の1/2である件を追証し、この議論にけりをつけ、クォークの存在を確定し、素粒子物理に革命をもたらしたのは1972年のことでした。当時、何人か計算をした人はいましたが、大多数の物理学者は本気ではクォークを信じていませんでした。

しかし一度クォークが定着すると、それは素粒子物理学における標準理論の基礎的要素となったのです。さらには1973年にウィルチェック、グロス、そしてポリッツァーという三人の研究者がQCDという理論を構築しました。その理論は我々が陽子の研究で発見したクォークの特性を反映するものでした。そうして1973年には全ての重要な要素が揃ったのです。

クォークは存在し、QCDはクォーク相互作用を説明するのに重要な理論であり、クォークは弱い相互作用と電磁相互作用もすることがわかり、これら全てが今日存在する標準理論の構成要素となったのです。

私の研究プロジェクトの展開と、それが果たした役割についてお話しました。ここで若い人たちに理解して欲しいことがあります。多くの物理学者が時間の無駄だと考えた実験をした、という意味で、当時我々は大変なリスクを負っていたということです。中には否定する人もいますが、最初にSLACの研究計画委員会にこの実験を提案したとき、彼らはそれを行う価値は無い、と言いました。しかし、人には賭けに出なければならないときがある、ということです。

それはまるで、海辺で石を拾うようなものです。石を拾っていくうちに、その石の下に真珠が入った貝を見つけるかもしれません。しかし、石を拾わない限りは、そして貝殻を覗いて見なければ、真珠を見つける可能性もゼロである、と。

それが、このお話の教訓です。誰もやったことが無いことをやってみたいと思ったとき、十分に強い確信があるのなら、やってみるべきです。

Jerome I Friedman 氏
(ジェローム・アイザック・フリードマン)
Jerome I Friedman 氏
(ジェローム・アイザック・フリードマン)

Jerome I Friedman(ジェローム・アイザック・フリードマン) 氏のプロフィール
1930年3月28日生まれ アメリカ シカゴ大学で博士号を授与され、1967年にマサチューセッツ工科大学教授となる。1990年には、「陽子と重水素核による電子の深部非弾性散乱に関する研究」によりクォークを発見した功績を認められ、ヘンリー・ケンドール教授およびリック・テイラー教授らと共にノーベル物理学賞を受賞。
アメリカ物理学会長をはじめ、日本でもつくば高エネルギー加速器研究機構の評議員を務める等、素粒子物理学実験の分野で幅広く活躍している。
また、最先端の物理を分かりやすく講義するとともに「若い人たちに科学の面白さを伝えたい」と学生たちの質問にも気さくに答える温厚な人柄で知られている。

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