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主翼と尾翼-自然科学と社会科学の関係(鈴村興太郎 氏 / 日本学術会議 副会長、早稲田大学政治経済学術院 教授)

2009.10.15

鈴村興太郎 氏 / 日本学術会議 副会長、早稲田大学政治経済学術院 教授

公開シンポジウム「ブダペスト宣言から10年 過去・現在・未来-社会における、社会のための科学を考える」(2009年9月9日、日本学術会議など主催)講演から

日本学術会議 副会長、早稲田大学政治経済学術院 教授 鈴村興太郎 氏
鈴村興太郎 氏

 ブダペスト宣言をじっくり読むと「社会における科学と社会のための科学」という何度も言及された項目の冒頭に印象的な表現がある。

 「科学研究の遂行と、その研究によって生じる知識の利用は、貧困の軽減などの人類の福祉を常に目的とし、人間の尊厳と諸権利、そして世界環境を尊重するものであり、しかも今日の世代と未来の世代に対する責任を十分に考慮するものでなければならない」

 これはまさに社会科学者が書くべき文章で、これがいみじくも象徴するブダペスト宣言の科学観は自然科学、人文・社会科学を問わず科学者全員がシェアすべきだ。

 では、社会科学は一体何ができるだろうか。芥川龍之介の小説「河童」(かっぱ)に、生まれる直前の胎児に父親が「汝(なんじ)、誕生の意志ありや」と尋ねる場面がある。しかし、人間にはこのようなことはないわけで、人間は選択の権利がないままこの世に生まれてくる。このことが人間と社会とのかかわりを考える際に非常ではないかと私自身しばしば思うことだ。

 歴史を考えると、選択の連鎖として歴史は作られてきたが、将来にかけてはわれわれの選択、そしてわれわれを継承する将来世代の選択次第で、経路はさまざまであり得る。将来世代がどのようなアイデンティティを持って生まれてくるか、どういう能力、文化を継承して行くかはわれわれ次第だ。

 地球温暖化問題を例にとれば、過去から現在に至るまで既に温暖化ガスを発生するような経済活動が積み重ねられているわけだから、それをどうするかの選択のレバーを持つものはわれわれしかいない。レバーの動かし方で将来の世代がどういうアイデンティティを持って生まれてくるかが変わってくる。ただし、将来世代が、われわれに何かを請求する権利を持つとよく言われるが、実のところどういう世代が生まれてくるか自体が、現代の選択次第なのだから、だれがどういう権利を持つかは分かるはずがない。権利に対する義務が生まれてくるはずもなく、「権利-義務」というスキームでこの問題を議論することはできない。

 残されてくるのは、われわれの選択責任に対して、将来にどのような保障をわれわれが考えるかだ。その保障はわれわれの現在の福祉を多少犠牲にしても、将来世代のためによい地球環境を残すことにつながってくると思う。

 地球環境に関しては、まさに自然科学者が精力を費やして膨大な知識を蓄積し、議論してきたものがある。社会科学には、社会科学固有の責任を持つ問題領域がある。社会経済制度の設計、その実装、評価という問題だ。ただし工学的なメカニズムとは異なる。自動車のパーツ(部品)に対して、意思を問うことはない。パーツは全体設計の観点から作られ、また作らなければいけないのに対し、人間社会の場合はパーツ自身が意思を持つ。パーツ自身の福祉に関心を持つ立場から制度の設計をしなければならない。このような本質的な違いがある。

 よく自然科学と社会科学は車の両輪と言われる。とはいえ、今日のシンポジウムのパネリストを見ても社会科学者は私一人で、サイズから言うと両者は違う。ただ、サイズはそうであっても、機能から言うと違うということが重要だ。車の両輪といっても古い自転車のような二輪車では、スピードを出したらブレーキをかけるとひっくり返ってしまう。これでは安定的な走行はできない。自然科学と社会科学の関係は飛行機の主翼と尾翼に例えた方が適切だ。小さいといえども尾翼がなければ飛行機ではないし、飛行機は飛ばない。

 ブダペスト宣言の精神を継承していく上では、小なりといえども人文・社会科学の果たす場があり、そういう場を大事にすることが実は科学全体にとって重要ではないだろうか。

日本学術会議 副会長、早稲田大学政治経済学術院 教授 鈴村興太郎 氏
鈴村興太郎 氏
(すずむら こうたろう)

鈴村興太郎(すずむら こうたろう)氏のプロフィール
1962年愛知県立明和高校卒、66年一橋大学経済学部卒、71年同大学院博士課程修了、京都大学経済研究所助教授、一橋大学経済研究所助教授などを経て84年一橋大学経済研究所教授、2007年同特任教授、08年から早稲田大学政治経済学術院教授。06年から日本学術会議副会長。専門は厚生経済学、社会的選択の理論、理論的産業組織論。06年日本学士院賞受賞。

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