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待望のコムギゲノム解読が完了

2019.01.28

丸山恵 / サイエンスライター

 今世紀に入り、生物の「ゲノム」が次々に解読されている。2018年8月には、コムギのゲノム解読が完了した。国際コムギゲノム解読コンソーシアム(IWGSC)の研究チームが、13年も尽力した大プロジェクトの成果である。地球で人類に最も貢献する食物といっても過言ではないコムギ。ゲノムの解読により新品種の開発が加速し、心配される将来の食料危機への重要な一手になると期待されている。

巨大ゲノムの実体とは

 「ゲノム」は生物の遺伝情報で、その実体は、DNA(デオキシリボ核酸)という細長い分子の上に並んでいるA(アデニン)、G(グアニン)、T(チミン)、C(シトシン)という4種類の物質の羅列だ。いずれも「塩基」と呼ばれる物質だ。「物語」という情報を「文字」の並びで表現したり、「曲」を「音楽データ」に変換してCDに書き込んだりするように、「ゲノム」という見えない情報を実体のある「塩基」で表現する。これらの塩基には、AとT、GとCという具合に特定の相手と対をなす性質があるので、塩基の数を表す際には「対」という言葉を使う。遺伝情報を表すための塩基の数は生物により異なり、コムギでは約160億対といわれる。ヒトゲノムの5倍以上もある。

 2018年8月の米サイエンス誌の報告によると、この巨大なゲノムの塩基配列の94%が解読され、遺伝情報として意味をもつ塩基の並びである「遺伝子」が10万7891個と、生物の個体にそれぞれ特有な400万以上の「DNAマーカー」の正確な位置が示された。地図に例えれば、コムギという街の地図(ゲノム)に、10万7891戸の家々(遺伝子)と、それらを探すのに便利な駅や学校など400万個の目印(DNAマーカー)を正確に配置した、そんなイメージだ。

技術革新で、夢が現実に

 世界三大穀物のコムギのゲノムが、なぜこれまで解読されてこなかったのか。それは、コムギゲノムが解読に不向きだからだ。まず、サイズが大きい。つまり、塩基の数が多い。これまでゲノムが解読されている代表的な生物と比べても、ダントツに大きい(図1)。

図1. 生物のゲノムサイズの比較。コムギゲノムは、ヒトゲノムの5倍、イネゲノムの40倍以上の大きさ。(The International Wheat Genome Sequencing Consortium(https://www.wheatgenome.org/News/Latest-news/Reference-Sequence/Media-kit)の資料を改変)
図1. 生物のゲノムサイズの比較。コムギゲノムは、ヒトゲノムの5倍、イネゲノムの40倍以上の大きさ。(The International Wheat Genome Sequencing Consortium(https://www.wheatgenome.org/News/Latest-news/Reference-Sequence/Media-kit)の資料を改変)

 そして、構造が複雑だ。パンの材料として最も一般的な「栽培コムギ」は、進化の過程で三つの祖先が交雑を繰り返しており(図2)、似たようなゲノムを3セット持つ。

図2. コムギの進化。一粒系コムギ、クサビコムギ、タルホコムギは共通の祖先から分かれて進化した。これらが互いに交雑し、パンやうどんに利用される栽培コムギが生まれた。(プレスリリースの図を一部編集)
図2. コムギの進化。一粒系コムギ、クサビコムギ、タルホコムギは共通の祖先から分かれて進化した。これらが互いに交雑し、パンやうどんに利用される栽培コムギが生まれた。(プレスリリースの図を一部編集)

 あまりにサイズが大きいので、生物のゲノム解読が始まった1990年代には、コムギゲノムを解読するなど夢物語だった。ところが、2000年に入ってゲノムの解析技術が飛躍的に進歩し、現実味を帯びてくる。近年では、1回の解析で解読できる量は当時の100万倍以上、費用は10万分の1ほどだ。大幅な時間短縮とコスト削減がかない、145億文字の解読は見果てぬ夢から現実となった。

 また、構造の複雑さは、コムギゲノム全体をまるごと調べるかわりに、ゲノムを構成する21本の「染色体」を1本ずつ取りだして調べる方法で克服した。それぞれの染色体の解析は、16カ国の国際研究チームで分担し、日本は全体で3番目に大きい染色体を担当。農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)、京都大学、横浜市立大学、日清製粉など産官学7研究機関の共同研究グループが参加した。コムギゲノムプロジェクトは、技術の進歩と国を超えてのチームワークが成し遂げた大偉業なのだ。

食料危機で求められる新品種の開発

 米が主食の日本でも、1人年間30キログラムのコムギを消費する。世界では1人年間65キログラムを消費し、カロリーとタンパク質の20%をコムギから摂っている。人類にこれほど大きく貢献している食物は他にないだろう。今後コムギの需要はさらに増える。2050年までに96億人に膨らむ世界人口を養うには、コムギの生産量を毎年1.6%増やしていく必要がある。一方、環境変動で気温が1度上がるごとに生産量は5%減るという。そんな食料危機に直面する今、収量が多く栄養価の高いコムギが求められている。しかも、サステイナブル(環境に負担をかけぬよう農地を広げず、化学肥料や除草剤などは最低限)に栽培できる品種だ。

世界のニーズにゲノム研究はどう応える?

 ゲノム研究は、食料危機の救世主となるような品種の開発(育種)を後押しすると期待されている。研究に携わった半田裕一さん(農研機構次世代作物開発研究センター遺伝子機能解析ユニット長)も、「ゲノム配列は基盤的な情報なので、コムギを対象としたすべての分野の研究にインパクトを与えるでしょう」と話す。では、現代の育種技術である「DNAマーカー選抜」「遺伝子組換え」「ゲノム編集」に、ゲノム研究はどのようなインパクトを与えるのだろう。半田さんに聞いた。

DNAマーカー選抜

 DNAマーカー選抜はいま主流の育種技術で、DNAマーカーを目印にして優れた性質のコムギを小さな苗のうちに見分ける。今回400万のDNAマーカーが特定され、DNAマーカー選抜による育種の加速化が期待される。ただし、実際の育種にそのまま応用できるわけではなく、少なくとももう1ステップ必要だという。使えるDNAマーカーは、「多型性を持つ」という条件をクリアしなければならない。多型性を持つDNAマーカーは、その塩基配列が個体間で微妙に違う。選抜は、DNAマーカーの塩基配列の微妙な違いが、どのような形質となってコムギに現れるかを見ながら行う。その候補となる多数のDNAマーカーが特定されたという点で、今回の成果は大きい。

遺伝子組み換え

 遺伝子組み換えとは、他の生物から有用な遺伝子を導入して新しい性質を加える技術をいう。これまでに、海外のバイオメーカーが除草剤に強い遺伝子組み換えコムギを開発し、商品化目前まで進めたことがあるが、遺伝子組み換えコムギは、いまだ商品化されていない。今回ゲノム情報が確立し、コムギの遺伝子組み換え研究が加速する要素はあるが、遺伝子組み換え作物に対しては社会の反応も厳しい。規制や消費者心理が変わらなければ、遺伝子組み換えコムギの実用化は難しそうだ。

ゲノム編集

 ゲノム編集は、ゲノムを狙ったところで切り、そこに突然変異を起こして新しい性質を加える注目の技術だ。コムギは、ゲノム構造の複雑さゆえ遺伝子の改変が難しいが、ゲノム編集はそのハードルを下げる。実は、すでにゲノム編集コムギの成功例はいくつも報告されており、今回ゲノム情報が確立したことで切断する場所を特定しやすくなるので、研究のさらなる効率化が期待できる。もし、ゲノム編集を今の遺伝子組み換えと異なる規制のもとで行えるようになれば、実用化の方向性は確実にゲノム編集に向いていくという。

 ゲノム研究の育種技術への応用には社会的な問題が関係し、研究面だけから考えるのは難しいが、「当面はDNAマーカー選抜による育種を加速しながら、ゲノム編集や遺伝子組み換えによる育種の実用化も考えていく形になるだろう」と半田さんはいう。たとえ研究レベルで食料危機を救える品種が誕生しても、本当にその品種を受け入れるかどうかの決定には、消費者の私たちにも大きな影響力があることも忘れずにいたい。

日本のコムギ自給はかなう?

 世界の食料危機も重要だが、日本の食料自給も気になるところだろう。日本のコムギの自給率は14%。残念なことに、耕地の限られた日本では、いくら優れたコムギを開発しても自給は無理だという。そのかわり、研究で世界のコムギ生産の安定化に貢献しながら、自国の食料供給の安定を保つ構図となりそうだ。日本のコムギ研究は伝統があり、20世紀半ばの緑の革命で食料危機の回避に貢献したコムギの新品種も、日本発の遺伝子を持つ親から誕生した。「今後も、世界のニーズに応える基盤を日本から発信していきたい」と半田さんも断言する。

さて、今世紀のコムギゲノム研究も、新たな農業革命につながるだろうか。もし世界のニーズを満たす新品種が誕生しても、今世紀の食料危機を救うには、農業の担い手や農地の確保、世界で生産される3分の1が捨てられているという食料廃棄問題の解決策など、多方面からのアプローチが必要になるだろう。

(サイエンスライター 丸山恵)

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