サイエンスクリップ

パンの柔らかさを保つ小麦を開発

2016.07.01

 焼きたてパンの“ふわふわ食感”が翌日も続いたら……。そんな夢のようなパンが実現するかもしれない。パンを柔らかくするには、乳化剤など「何かを加える」のが製パン業界では主流だ。ところが、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)と日本製粉株式会社が共同で開発した小麦で作ったパンは、乳化剤などを加えず小麦粉そのものだけで、3日経ってもその柔らかさを失うことがないという。

写真1.開発された小麦. 見た目は通常の小麦とほとんど変わらない。(提供:農業・食品産業技術総合研究機構)
写真1.開発された小麦. 見た目は通常の小麦とほとんど変わらない。(提供:農業・食品産業技術総合研究機構)

パンの食感の決め手は「デンプン」

 そもそもパンはなぜ時間が経つと硬くなるのだろう。これにはパンの材料の小麦に含まれるデンプンが関わっている。デンプンは米や小麦などの穀物に多く含まれる成分で、炭水化物として私たちの食生活に不可欠だ。水と熱を加えると組織がほぐれ柔らかくなりゲル(糊)状になるが、冷めるとデンプンの老化という現象が起こり、ゲルから水分が離れ白濁して硬くなる。このデンプンの老化現象が、焼きたては柔らかかったパンが硬くなる理由である。ご飯が冷めるとボソボソした食感になるのも同じ理由だ。

 デンプンは、ブドウ糖がいくつも連なった構造を持ち、ブドウ糖がほぼ直線状に連なった「アミロース」と、その直鎖に枝分かれのある「アミロペクチン」の2種類がある。多くの穀物のデンプンは両方を含むが、今回、新しく開発された小麦は、図のように従来のものと比べてアミロースが少なく、アミロペクチンの外側の枝が短い。

図1.通常タイプのデンプン(上段)と今回新たに開発されたデンプン(下段) 提供:農研機構
図1.通常タイプのデンプン(上段)と今回新たに開発されたデンプン(下段) 提供:農研機構

 この特殊なデンプンの構造が、時間が経っても硬くなりにくいパンの決め手である。この小麦で焼いたパンは、焼き上がりから3日後も通常の小麦のパンより柔らかい。その柔らかさは、通常のパンを焼き上げた翌日のものを上回る。

写真2.3日目の食パンのスライスに、同重量の重りを載せた。新しいタイプの小麦のパンの方が柔らかい。提供:農研機構
写真2.3日目の食パンのスライスに、同重量の重りを載せた。新しいタイプの小麦のパンの方が柔らかい。(提供:農研機構)

 ちなみに米も、アミロースが少ないとモチモチした柔らかい食感になり、アミロペクチンの枝分かれ部分が短いと、炊いたご飯や餅(もち)は硬くなりにくい。

 実際に食べた感じはどうなのだろう。研究チームに伺った。

 「最初に口にしたとき、通常のものに比べてしっとり感がありソフトだと感じました。3日目に食べてびっくり。通常のものと大幅に異なり、『これが3日経ったパン?!』という感じで驚きました。味や風味はデンプンに関わるものではないので、そこに変化はないと思います」

 ちなみに、生地を作る時に加える水分は通常のパンとほぼ同じで、焼いた後の水分含量はほとんど変わらないそうだ。しっとり感の正体については現在解明中だと言う。

デンプンの性質の決め手は「遺伝子」

 驚くほど食感に変化をもたらすデンプンを持つ小麦は、どのように生まれたのだろうか。研究チームは、アミロースの合成に関わる顆粒結合型デンプン合成酵素「GBSSI」の遺伝子と、アミロペクチンの合成に関わる可溶性デンプン合成酵素「SSIIa」遺伝子に着目した。そして、それぞれの遺伝子を部分的に欠損させた結果、紹介したようなユニークな性質のデンプンを持つ小麦が誕生した。

 「部分的欠損」と言ったのは、単なる欠損ではないからだ。実は、小麦はゲノムを3セット持つ(各々Aゲノム、Bゲノム、Dゲノムと名付けられている)。従って、一つの遺伝子につき、A、B、Dゲノム由来の3つのコピーが存在する。小麦のある一つの遺伝子が欠損する場合の組み合わせとしては、「Aゲノム由来のコピーのみ欠損」や「BとDゲノム由来のコピーの欠損」など全部で8パターンが起こりうる。

 今回開発された小麦は、2つの遺伝子GBSSIとSSIIaのうち、BゲノムとDゲノム由来のものが欠損している。この小麦は、「モチ」と呼ばれる系統(A、B、Dの3つのゲノム由来のGBSSIを欠き、SSIIaを全て持つ)と、「高アミロース」系統(GBSSIを全て持ち、SSIIaは3つとも欠損)を交配※1して作られた。この小麦が生まれる可能性は4,096分の1である。

図2.通常の小麦と開発された小麦が持つ遺伝子GBSSIとSSIIaのイメージ。2つの遺伝子は、通常の小麦には、A、B、D全てのゲノムが存在するが、開発された小麦では、BとDゲノム由来のものが欠損している。(図は筆者作成)
図2.通常の小麦と開発された小麦が持つ遺伝子GBSSIとSSIIaのイメージ。2つの遺伝子は、通常の小麦には、A、B、D全てのゲノムが存在するが、開発された小麦では、BとDゲノム由来のものが欠損している。(図は筆者作成)

 ※1 交配/ここでは、遺伝子組成の異なる2つの個体の交配を行った。

効率的に“選ぶ”育種法を導入

 4,096分の1の確率の稀にしか現れない小麦をいかに効率的に探すかは、大きな課題だ。実は科学技術が発展した今も、育種※2の基本的な考え方は昔と変わらず、交配によって「親」の“ある特定の遺伝子”を受け継いだ「子」を選ぶ方法が採られている。しかし、成熟した種子から目的の子孫を選ぶ従来のやり方は、手間も時間もかかる。

 ※2 育種/生物を遺伝的に改良すること。品種改良とほぼ同じ意。

 この「選ぶ」という大仕事を効率的に行うのが、「DNAマーカー選抜」という新しい育種技術だ。DNAマーカー選抜は、親から受け継ぎたい遺伝子、あるいはその遺伝子に隣接する遺伝子配列に存在する特異的DNA配列に目をつけ、 これが子にあるかどうかを目印に、目的の遺伝子が受け継がれたかどうかを判断し、選抜する。生育環境に左右されないDNA情報を基に確実に選抜できる上、幼苗の段階で目的の子孫だけを残して栽培するので、栽培にかかる労力やコストを大幅に省ける。

 小麦のように複雑なゲノムを持つ植物は、育種が難しい一方、遺伝子の組み合わせによってできる形質のバリエーションが多く、研究開発の余地が大いにある。自然には起こりにくい稀な遺伝的特徴を持つ小麦の開発が、DNAマーカー選抜技術によって現実的になったのだ。

夢のパンが流通する日に向けて

 今回開発された小麦で焼いたパンが出回るようになれば、柔らかさを長く楽しめるだけでなく、パンの廃棄を減らせるのでは、と研究チームは期待している。まず東北地方での栽培に適した品種への育種が進められている。平成29年度には、東北の農家レベルで栽培が始まる予定で、製粉会社から十分な供給体制をとれるようになるには5年程かかるとのことだ。しかし、東北の小麦栽培は全国で見るとあまり多くないので、予想される需要に対応するため、現在、北海道、九州、関東でも栽培できる同じタイプの小麦の開発が、DNAマーカー選抜技術をフル活用して進められている。

 この研究の面白さについて、研究チームの中村俊樹(なかむら としき)農研機構東北農業研究センター畑作園芸研究領域畑作物育種グループ主席研究員はこう語る。

 「小麦は、イネやトウモロコシなどと並ぶ世界の主要作物の1つですが、複雑なゲノム構成で基礎研究には適さない植物です。でもその性質をうまく利用すれば、イネやトウモロコシにはできない特徴的な育種ができるのではないかと気付きました。気付いたのはもう20年近く前の話です。その実証方法としてデンプンに注目し、今回のように3個のゲノムのうち1つあるいは2つの欠損を利用し、それらをさらに組み合わせていくことで形質をチューニングできることを実証したわけです」

 中村氏は、既に同じ方法でモチ小麦や甘味種小麦(トウモロコシのスイートコーンに当たる)も世界に先駆けて開発し、小麦ならではの育種手法を提示してきた。このように研究展開できた背景には、DNAマーカー選抜技術の出現という時代的な“運”もあるようだ。従来の方法では、例えば今回の「4,096個」の中から目的のものを選ぶのは不可能だが、DNAマーカーがあれば意図的に目的のものを選べ、組み合わせてデザインもできる。「まさに幸運な時期に研究者であった」と付け足している。

最後に「今後、育種は大きく変わっていくと思います」と言い切る中村氏の言葉に、最先端技術と斬新な発想の融合が生み出す新しい育種の未来が見えるようだった。

(サイエンスライター 丸山 恵)

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