レビュー

編集だよりー 2013年3月4日編集だより

2013.03.04

小岩井忠道

 極楽へ行けるか地獄に突き落とされるかは、死後49日目に閻魔(えんま)大王が決めること—。これまで何度か聞いたり、読んだりした記憶がある。しかし、浄土真宗本願寺派(ということはおそらく真宗大谷派も)では通用しない話、ということを初めて知った。2日、ひたちなか市で行われた親類の49日法要に参列した時、お経を始める前の住職から教えられる。

 確かに「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の教えからすれば、閻魔大王にそんな判断を任せるなどというのはおかしい。では、なぜ浄土真宗でも49日の法要をするのか。これについても説明があったのだが、難聴の身でこちらは聞き取れなかった。

 ともかく、郷里の法事は、読経の前に故人についての個人的な思い出話などを住職が話してくれるなど、参列してよかった、と思うことがよくある。最近は、葬祭場で行われる方が多くなったが、東京、郷里を問わず葬儀社員が当然のようにあれこれ指図するのがたまらない。まるで自分たちが主催者のような態度をとるのは、どういう了見からなのだろう。数年前、都内で行われた通信社時代の友人の告別式で弔辞を頼まれたことがある。早めに着き、式場に着席していたら、女性の先輩がやってきた。すでに狭い会場はいっぱいだったので席を譲り、部屋の後方に立っていたことがある。

 「外でお待ちください」。葬儀社の女性社員から邪魔だと言わんばかりに指示される。「弔辞を頼まれているので」と穏やかに答えると、勝ち誇ったような顔つきで言われた。「弔辞はありません!」。おいおいあんたが決めることじゃないだろう、と思いつつ、黙って通路に退出した。読経、焼香が終わり、出棺の準備で近親者以外の参列者が室外に出された後、その女性社員がケロッとした顔でやってきた。「弔辞やってもらうことに…」。怒りを忘れるよう努めながら、何とか気持ちを切り替え、出棺の直前に弔辞を読み終えたことを思い出す。

 この業界はひょっとして普通の競争原理が働いていないのではないか。つくづく思ったものだ。

 お寺から、墓所に回り、納骨を済ませた後で、仏宅の近所の湯治旅館でお斎(とき)となる。仏は、編集者の母の従妹だ。母の母は兄弟が多かった。祖母を含め全員亡くなっており、16人いた母のいとこも既に生きている方が少ない。そのいとこから生まれた中で最初の子が編集者だった。当然、母のいとこたちとの付き合いも濃い、というよりよく可愛がってもらった、ということだ。仏も「(編集者が)小さいころよく抱いて寝た」と生前、言っていたものだ(編集者は覚えなし)。お婿さんを迎え、ひたちなか市の中根というところにある編集者の祖母の実家を継ぎ、亡くなる数年前まで農作業を続けていた。

 この実家というのが、相当に大きな農家だ。昔、遊びに行っていたころは、米軍水戸射爆撃場(現在、国営ひたち海浜公園となっている)から飛び立った戦闘機が真向いから飛んできて家のすぐ真上をごう音と共に何度も飛び越していったものだ。がけの上に立つ大きな二階家が格好の目印だったのだろう。なにせ今でも周囲は田んぼと林ばかりである。田を挟んでわずか300メートルほどしか離れていない目の前を私鉄・湊線(現・ひたちなか海浜鉄道)が通っているのに、編集者が中学生くらいまで電気が通じていなかった。

 お斎を終え、編集者と叔母、叔父などごく少数の親類だけが、仏の自宅に寄る。横須賀に住んでいる仏の長女が、仏壇の下から一通の手紙を取り出してきた。なんと叔母、叔父、編集者の母の父が85年前に上海から仏の祖父(妻つまり編集者の祖母の父)に出した手紙が残っていたのだ。細かい字の上、“達筆”なので皆、簡単には判読できない。分からないところを読み飛ばすことには慣れている編集者が斜め読みしたら、どうも次のような内容のようだ。

 「上海も不穏な状況になってきた。子供二人と妻を帰国させたい。ついてはかくかくの電報が届いたら船が着く神戸まで迎えに来てくれまいか」

 日付は昭和2(1927)年である。子供二人というのは、いずれも今はいない編集者の母と上の叔父でそれぞれ4歳と2歳くらいの時だ。叔母と下の叔父が上海で生まれるだいぶ前である。編集者の父が、旧制水戸中学から上海の東亜同文書院に進学するのが昭和10(1935)年だから、それよりもさらに前ということになる。

 「ここで妻子を帰すはずはない」。叔父が首をひねる。確かに祖父が祖母と母たち4人の子供を一足先に日本に帰すのは、下の叔父が上海で生まれた昭和10(1935)年より先のはずはない。これが一時的な帰国という形になったのか、あるいは計画が変更になり、帰国が取りやめになったのだろうか。何とも判断しようがない。

 帰京して、この時期、上海がどういう状況にあったのか調べてみた。祖父がこの手紙を書いた1927年というのは、南京事件が起きた年だ。日本軍が加害者とされている10年後、1937年の南京事件と異なり、こちらは市民を含む中国軍が英国、米国、フランス、日本の領事館を襲撃したという事件である。蒋介石に率いられた国民軍の行為とされているが、中国共産党の計画的策謀でさらにその裏にロシアがいたともいわれ、なかなか複雑な事件のようだ。

 神戸大学付属図書館作成というデータベースによると、1927年3月30日付大阪朝日新聞は、南京領事館の惨状を伝える記事と共に、次のような29日発上海特電を載せている。

 「閘北方面は29日朝来空気険悪となり、糺察隊は通行人に対し身体検査をなし日本人の通行者にも強行し、日本服を纏える婦人の帯を解かんとし婦人が悲鳴を挙げたのを助くるものがあってことなきを得た、蒋介石氏が左傾派の糾察隊、便衣隊に永久武装を許すことを声明したのは今後の上海を脅威するものとみられている」

 閘北地区というのは上海の日本人居住地の西に接するか一部は居住地に含まれる区域のようだ。糺察隊と蒋介石の関係はなかなか複雑らしいが、どうも1927年時点の上海は、中国と英、米、フランス、日本との緊張関係に加え、国民軍と毛沢東、周恩来らが率いる共産勢力とがぶつかり合う場所にもなっていたらしい。日本の陶磁器を売る会社に勤めていた祖父としては、家族を置いておくのが心配になった、という心境になるのも理解できる気がする。

 ちなみに同じ日付の大阪朝日新聞上海特電は、上海にあった公大、上海両紡績会社でストが起き、運転不能になった紡績が20万錘に達したことも報じている。上海紡績は、中国につくられた最初の日本資本による紡績会社で、編集者の父が東亜同文書院を卒業してそのまま現地で就職した会社でもある。

 昔ながらの法事に出ると、予想外のことに巡り合うものだ。地方に辛くも一部残っている冠婚葬祭の形態がすっかり変わってしまうのは、時間の問題だろうが…。

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