レビュー

編集だよりー 2013年1月15日編集だより

2013.01.15

小岩井忠道

 仕事に関しても似たようなものだが、特に私生活となると計画を立てて何かをしなければという気持ちが昔から薄い。嫌いではない飲み食いに関しても、人に誘われて付き合うというのが大半だ。その代りよほどの不都合がない限り、断るということもないが…。

 「自分の生まれた所くらい一度行ってみたらどうだ」。何年も前に同じ上海生まれの叔父に言われたことがあったが、聞き流していた。中国に全く関心がなかったわけではない。中国映画には、何度も感服した口だ。ただ、現実の中国は1、2度訪ねたくらいで分かるわけはないだろう、という気持ちがどこかにあったのだろう。新聞記事を読むくらいでこれまで過ごしてきてしまった。

 ところが、その中国、それも上海にも行くという思いもかけない機会が巡ってきたからうれしい。中国の代表的大学の研究開発状況を調査するという科学技術振興機構中国総合研究センターの事業に加えてもらったおかげだ。ただし、年末、年始と結構、時間を取られることが続き、せっかくの中国初訪問も、ほとんど予備知識がないまま、6日羽田空港から飛び発つことになる。

 上海に着いた日の午後、地下鉄で黄浦河の下をくぐり、対岸の浦東地区にそびえる東方明珠タワー(高さ468メートル)に上って仰天した。

 このタワーができた1994年当時、黄浦河の東側に当たるこの地域には本当に何もなかった、という。それがどうだろう。タワーの展望台からは、どちらの方向を向いても高層ビルがひしめきあっている。それもはるか遠方まで、という感じである。「上海は高層ビルラッシュ」。そんな記事を何度か読んだことはあったが、全くその通りだったというほかはない。上海の人たちは、東京スカイツリーに上っても、こと眺望に関してはさほど驚くこともないのではないだろうか。

 翌7日、上海交通大学に海洋工学研究者を訪ねる前の時間を利用し、編集者の生まれた場所に連れて行ってもらった。編集者が上海生まれと知った同行の皆さんの心遣いである。両親は太平洋戦争が終わり一文無しで引き揚げた後、相次いで早死にしてしまったから、上海の話を聞いた覚えはない。前述の叔父をはじめ母方の祖父母、叔父叔母も、すでに亡くなっている祖父だけをのぞき終戦のだいぶ前に引き揚げているから、上海に住んだ時期はずれている。というわけで、手掛かりはわが戸籍の出生地欄に記載されている「中華民国上海山蔭路」という記載だけだ。「日本人の居住地はフランス租界にあった」。母方の祖父に生前聞いたようななんともあいまいな記憶があったが、これも全くの勘違いだったことがすぐ判明する。しかも、全くの事実誤認であることも帰国後、本を読んで知った。

 一人で行ったら探し出すのはまず、無理だったろう。地図の中からこの道路を探し出せるとは思えないし、そもそも中国語の簡体字では「蔭」が、とてもそれとは思いつかないような字体にかわってしまっているからだ。しかし、同行の中国総合研究センター職員、シン・ジャワさんは、上海で生まれ育った人で、父上は上海に住んでいる。着いた日のうちに「山蔭路」がどこか、たちどころに指摘してくれたそうだ。

 タクシーで連れて行かれたその場所は、上海の中心部から蘇州河を渡り、だいぶ北にある魯迅公園のすぐそばだった。公園正門前でタクシーを降り、公園に沿って東の方向にちょっと歩いたところに目指す「山蔭路」(ただし簡体字)の表示。実はこれは脇道ともいうべき道で、さらにしばらく歩くと車やバイクが行きかう「山蔭路」の本通りに出る。太平洋戦争終結前、つまりわが一家が住んでいた当時のままと見られる赤レンガ造りの洋館が本通の両側に並ぶ。やってきた方向と反対側の路地では配管工事だろうか、つるはしをふるう作業者の姿が見られ、すぐそばの家では外壁にセメントをこてで塗りつける、これまた昔、日常的に日本でも見られた人の姿があった。

 住んでいた家までは知りようがなかったが、本通りの両側に建つ家に住んでいたとしたら結構、よい生活だったのだろう。最初に通った脇道に沿って立つ集合住宅も立派なレンガ造りである。

 「この辺を含む蘇州河北部の相当広い地域が、日本租界(正確には共同租界日本人居住地)だった」と父上が言っていた、とシン・ジャワさんに教えられ、多い時で10万人、太平洋戦争終結時でも3万人もの日本人が住んでいた、と帰国後に知る。

 前日、見学した東方明珠タワーの1階に、上海の昔の姿、人々の生活ぶりを示す展示館が設けられていた。これが広さも展示の種類も十分で相当、見応えがある。展示の一つに上海中心部にあったというダンスホールを備えた英国のレストランがあった。その隣に、上海中心部の外縁に押しやられた中国人庶民の貧しい生活を示す対照的な展示が置かれている。「18万戸、100万人余の人々がバラックで生活をしていた」という説明文付きで…。

 英国、フランス、ドイツ、米国、ロシアと並び、日本人も上海のいい場所を占有し、中国人にはひどい迷惑をかけていたということだ。

 「この辺りに内山書店があり、魯迅が親しく出入りしていたんです」。同行者の言葉の重みも、内山書店や魯迅の周囲でいかに多くのドラマが展開されたかも、実は帰国して何冊かの本を読むまで知らなかった。

 生まれた場所を訪ねることができたおかげでわが身の無知も思い知らされた、ということになる。

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