レビュー

編集だよりー 2012年3月11日編集だより

2012.03.11

小岩井忠道

 「笛吹川」という映画(木下恵介監督)があったのは覚えているが、どの辺りを流れている川なのかは、全く知らなかった。今月の甲州街道歩き(10日)は、JR山梨市駅からJR石和温泉駅までの約9キロ区間である。「これが笛吹川か」。注意して見ないとどちら向きに流れているか分からない川面を眺めながら、しばし歩く。笛吹橋と書かれた橋を渡り右岸に出ると、石和温泉郷入り口という大きな表示が出ている。川に沿ってわずか下った所に、横笛を吹く若者、笛吹権三郎の像があった。リーダーが用意してくれた資料を読む。

 「笛の名手だったが、洪水で流された母を探すうちに、自分も深みにはまって絶命した。その後、夜になると川の流れから美しい笛の音が…」。しかし、それが笛吹川の名前の由来というのは、話ができすぎてはいまいか。などと思ったものだが、帰京後、ウェブで少々の知識を得て考え直す。1907年に大洪水を起こした時、歩いたばかりの石和温泉郷付近で笛吹川は流路が大きく南西方向に変わってしまい、今の場所になったという。洪水に遭った回数は、たまにしか起きない地震による被害回数よりはるかに多かったはず。流域の人々に代々伝えられた被害の記憶もどんどん積み重なる一方、語り継がれた記憶の一部は純化されたのかも。そして、世代を超えた大勢の人々の悲しみが、いつのころからか一つの言い伝えに凝縮した、ということはないだろうか、と。

 東日本大震災1周年の今日だけでなく、何日も前から新聞、テレビが連日、被災地の人々の様子を伝えている。家族を失った被災者たちの言葉にしばしば目頭が熱くなるのは、編集者のように年齢の行った人間だけではないだろう。あの日を境に人生が一変してしまった人々の数と、それぞれの悲しみの深さに思いをはせるなら…。

 その一方で、思い出す言葉がある。「死んだ子の年を数える」。昔はよく耳にし、目にした気がするが、最近はあまり使われないのだろうか。若死にした母を持つ編集者などは、祖父母、叔父、叔母から母の話をほとんど聞いた記憶がない。編集者から尋ねたこともなかった。過ぎたことを悔やんでもどうにもならない。皆そんな心情からあえて話さないのだということを、子ども心に分っていたからだろう。母より先に亡くなった父については、命日すら覚えようとしないまま今に至っている。こちらは到底、自慢できる話ではないが…。

 太平洋戦争終結時、わが親子と祖父はそれぞれ上海に住んでいた。祖母、叔父、叔母たちは子どもの教育のこともあり何年も前に帰国している。敗戦と同時に父は財産、職を失い、祖父も失職する。先に日本に戻っていた祖母、叔父、叔母たちが住んでいた借家もポツダム宣言受諾のわずか12日前、B29による米軍の無差別爆撃で水戸市街地のほとんどが焼失した際、焼けてしまった。当時、小学生だった下の叔父によると、隣の1人暮らしのおばあさんも連れて住宅地からはずれたトウモロコシ畑に逃げた時、祖母から「皆かたまらないで、間を開けなさい」と命じられたそうだ。離れていれば爆弾を落とされても全員が死ななくて済む。そう祖母が考えたのだろう、というのが叔父の解釈だが、これはどうだろう。バラバラになっていた方がB29のパイロットに見つかりにくいと考えたのではないかとも思われる。すぐ近くに爆弾を落とされたそうだが、とにかく皆無事だった。

 ちなみにこの爆撃で、水戸城本丸跡に建つ父、伯父、叔父たちが通った水戸中学(現・水戸第一高校。編集者の母校でもある)の校舎も焼け落ちてしまう。「焼けたのは校舎だけだ。学校は焼けていない!」。焼け落ちた校舎を前に動揺する生徒たちに向かって、教頭が絶叫した、と当時、水戸中学の1年生だった高倉翔・元明海大学学長に聞いたことがある。

 ということで、命は助かったけれど敗戦により両世帯とも文字通り一文無しだ。幸い親類がたくさんいたので、ホームレスにはならずに済んだということだろう。敗戦後のしばらくの間、わが家族は不運、不幸を嘆く暇などなかっただろうし、周囲を見ても似たりよったりの境遇の人たちが少なくなかっただろうと想像する。今や立派な会社になっている水戸証券の小林一郎前会長(故人、伯父や父と同じ汽車で通学していた)から、「戦後しばらく、くぎを作って売り、食いつないでいた」という話を聞いたことがある。確かに証券業はしばらく成り立たなかっただろう。

 帰宅後、深沢七郎の小説「笛吹川」がどんな話なのかウェブを探してみた。武田信虎、信玄、勝頼が活躍した時代の6世代にわたる貧しい農民一家の話だそうだ。洪水も出てくるし、農民一家の登場人物は次々と無惨に死んでしまうという。あるブログが、「深沢七郎傑作小説集1」(読売新聞社)の作者あとがきに出てくる作者の言葉を紹介していた。

 「誰が生れて、誰が死んだとか、全然新しい個人が生まれたとかと考えない。つまり、死んでも生れても同じ人間だということ、つまり、誰が生れても、 誰が死んでも、人間たちは生きているのである。それは、誰でも同じ人間だと考えるのである」

 東日本大震災で被害に遭われた方々が、仮に深沢七郎のような心境に達することがあったとしても、それには長い長い時間が必要だろうか。

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