レビュー

編集だよりー 2013年2月13日編集だより

2013.02.13

小岩井忠道

 健さんファンを自認している近藤勝重・毎日新聞専門編集委員が同紙8日夕刊の連載コラム欄で、前に書いた記事の後日談を紹介している。「今度は僕が、近藤さんが文章術を教えている大学で、一番後ろに座って聴講したいですね」。俳優の高倉健氏が、近藤氏のインタビューを受けた時に口にした通り、講義中の教室を訪ねてくれた、という話だ。

 よく読んでみると、「秋が深まったころ」の出来事という。このところ新聞、テレビの扱うニュースは、中国海軍艦船が海上自衛隊の護衛艦などに火器管制レーダーを照射した問題に集中している。この日の同じ毎日新聞夕刊トップも「中国レーダー照射否定」だった。岸田文雄外相が「中国側の説明は全く受け入れられない」と中国側に再調査を求めたことを伝えている。

 土日の民放キー局報道番組もそろって大きく取り上げていた。ここに至って、ようやく気付く。近藤氏が、昨年秋の出来事をわざわざこの日、取り上げたのは、中国ないし中国人に対する見方が一面的になることの危うさを指摘したに違いない、と。

 そんなことは考えなくても、記事は面白い。特に目を引いたのは、高倉氏が中国・日本合作映画「単騎、千里を走る」(チャン・イーモウ(張芸謀)監督、降旗康男監督、2005年)に主演した後、6年間俳優活動ができなかった、という話だ。「お金、お金ってやってきたけど、『単騎——』の仕事をして、それでいいのか、情けないなって思って、映画もCMもやれなくなったんですね」。そう学生たちに語ったという。

 「単騎、千里を走る」の中国ロケ中に出演者やスタッフらから受けた細やかな数々の心遣いに触れて、「人の心を打つ」ということは時間、お金とは別のこと、と「価値観が変わった」。そんな心情も吐露している。初めて知る話だった。

 ところで「お金、お金でやってきたけど」という高倉氏の言葉に、アレッと感じた人はいないだろうか。興行収入だけを狙ったような映画と、高倉氏を結び付けて考える人はあまりいないのでは、と思われるからだ。ここでいう「お金」には、少し深い意味があるような気がする。

 高倉健氏は1981年の「駅STATION」以来、「居酒屋兆治」(83年)、「夜叉」(85年)、「あ・うん」(89年)、「鉄道員(ぽっぽや)」(99年)、「ホタル」(2001年)、さらに6年のブランクを置いて昨年、出演した「あなたへ」という作品を降旗康男監督とのコンビで撮っている。降旗監督は前述のように「単騎、千里を走る」の日本側監督だ。81年以降、高倉氏はハリウッド映画2本にも出ているが、国内の主演映画は11本。このうち7本が降旗監督ということになる。このうち「あなたへ」を除く撮影監督は、全て木村大作氏が務めている。木村氏は「単騎千里を走る」でも日本側の撮影監督だった。

 日本映画の衰退が言われて久しい。有名俳優、有名監督とて簡単に映画作りに関わることができなくなったということだ。有名俳優・監督に限らず映画作りの現場で働いていた人たちの仕事の場が、急激に減っているということだろう。高倉健氏が、同じ監督や撮影監督、さらにおそらくその他のスタッフたちと多くの映画を作ってきたということは、その人たちにできるだけ仕事を与えたかったから、ということではないだろうか。「お金、お金でやってきたけど」と言った意味は。

 10日、BS日テレで放映された「雨あがる」(小泉堯史監督、2000年)を久しぶりに観た。その年の映画賞をほぼ総ざらいする評価を得た作品だ。見終わってだれもがほのぼのとした気持ちになる映画を、という狙いは今でも十分、伝わってくる。

 他方、小泉監督と高校の同級生であるのをよいことに、偉そうな感想をあらためて抱く。監督のその後の作品「阿弥陀堂だより」(2002年)、「博士の愛した数式」(2006年)、「明日への遺言」(2008年)の完成度の方が、「雨あがる」よりさらに高いのではないか、と。

 「明日への遺言」(主演・藤田まこと、原作・大岡昇平)は、小泉監督が「雨あがる」で監督デビューするはるか前に脚本を書き上げていた。当時、高倉健氏が脚本を読んで「この役(主人公、岡田資・陸軍中将)はおれにやらせてほしい」と言った、と聞いている。小泉監督の脚本家としての能力も、早々と見抜いていたということだろう。

 「明日への遺言」公開から5年。小泉監督の次回作品(脚本も)の撮影が間もなく始まる。「雨あがる」を超える時代劇となるだろう。

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