レビュー

編集だよりー 2012年12月5日編集だより

2012.12.05

小岩井忠道

 仕事上やむを得ず車の免許書を取り車を持ったのは、40歳になってからだ。最初の1年間は事故ばかり起こしていた。2年目から自動車保険料が跳ね上がったものだが、文句は言えない。けがをしなかったこと、させなかったことだけでもありがたいと言うべきだろう。車を手放してからだいぶたち、もうハンドルを握る気にはなれない。車で遠出をするのは、知人や友人の車に乗せてもらうかバス旅行の時くらいだ。乗せてもらうのは運転経験が長い人たちばかりだから、交通事故に遭って死んだり、大けがをしたりする確率は恐ろしく低くなったと思っている。

 そんな人間でも、中央自動車道笹子トンネルで起きた事故にはぞっとした。車好きの人の驚き、怒りは想像できる。

 安全・安心の向上に役立つことが科学技術の重要な使命の一つと言われてだいぶたつ。原因が明確になっていない時点で言うのは不遜かもしれないが、笹子トンネル事故の防止策は、それほど難しいとは思えない。今の日本社会にはびこるもろもろの危険、例えば幼児虐待を防ぐ方策や原発事故防止策の複雑さ、困難さを考えれば…。

 11月26日にオピニオン欄に掲載させていただいた押田茂實・日本大学名誉教授の寄稿「最近のDNA型鑑定と刑事裁判の問題点」を読まれて、ぞっとした人も多いのでは、と想像する。無実にもかかわらず有罪の判決を下された人間が日本にどのくらいいるものか、と。押田氏が3番目に挙げたケースは現在進行中だが、おそらく新聞や放送で報道されていないのではないか。痴漢事件は、被疑者が有名人でもなければニュースとして伝えられることはまずないから。

 押田氏のDNA鑑定によって誤った判決が避けられそうなケースというのも、実に恐ろしい。被害者だと主張している高校生が実は加害者で、加害者とされた大人の方が逆に被害者だった可能性が高いということだろうから。“被害者”の証言を否定する証拠がなければ、犯人とされた大人がいかに否定しようとも、警察官、検査官、裁判官のいずれからも聞き入れられるのは極めて難しかったに違いない。被告の絶望感、孤立感はどれほどだっただろうか。もし押田氏のような法医学者がいなければ、無罪になる可能性はほとんどなかったかもしれないのだ。

 前から気になっていた周防正行監督(脚本も)の映画「それでもボクはやっていない」(2007年公開)をDVDで観る。こちらは被害者が女子中学生で、被害に遭ったことは間違いなさそうというケースだから、被告の置かれた状況はもっと悪い。現実にはここまでやってくれる弁護士はいないだろうと思われるくらい必死の弁護活動をしてもらい、家族、友人たちの大きな支援を得ても、やはり有罪の判決が出てしまう。

 1週間前に映画館で観た同じ周防監督(脚本も)の「終の信託」同様、いったん被疑者になり、起訴されてしまうといかに無罪になるのが困難か、“実感”する。

 警察、検察の調べの場面のリアルさは、多くの人が認める通りだが、裁判官の描き方も秀逸だ。「終の信託」では検察官役を大沢たかおが見事に演じていたが、こちらは有罪の判決を下す2番目の担当裁判官役、小日向文世がこれまた実にそれらしい。二人の俳優の演技力もさることながら、周防監督の俳優選びに舌を巻く。大沢たかおも小日向文世も、温かみのある人間を演じて様になる役者だろう。こうした俳優をあえて検察官や裁判官役に起用する理由を考えた。

 無実の人間を有罪にしてしまう冤(えんざい)罪の原因は、担当した検察官や裁判官が元々傲慢(ごうまん)な人物だったわけではなく、検察官や裁判官という強大な権限を持つ職に就いた結果、司法の権威を守ることが最優先の関心事になってしまう。「疑わしきは罰せず」というより大事な裁判の原則よりも…。

 そう考えて周防監督は、あえてヒューマンな役が似合う俳優を検事や判事役に起用したような気がする。「疑わしきは罰せず」という裁判の大原則を最優先させるのをもはや司法界の自浄力だけに任せることはできない、という強いメッセージをこめて。

 2011年9月28日に日本学術会議の「心理学・教育学委員会法と心理学分科会」は「科学的根拠にもとづく事情聴取・取調べの高度化」という提言を公表した。そこに次のような記述がある。

 「現在、警察、検察における事情聴取・取り調べは、対象が被疑者であれ、目撃者であれ、被害者であれ、標準化された手続きがない。また、録画・録音といった客観的な記録もなく、効果の検証もなされていない。そのような中で、足利事件、志布志事件等に見られる虚偽自白、自民党放火事件、甲山事件等に見られる目撃証言の誤り、度重なる取調べによって生じる被害者のトラウマなどが問題として繰り返し指摘されている」

 こうした現実を変えるために提言は「科学的根拠にもとづく面接技法の使用の制度化を目指すこと」と「事情聴取・取調べの全面的録画・録音を早急に制度化すること」を求めた。

 日本学術会議には、有名大学の教授15人から成る法学委員会というのがある。心理学・教育学委員会以上に司法界に対する影響力も責任も大きいはずだ。法学委員会にも何かしてほしい、と期待する人も多いのではないだろうか。

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