レビュー

編集だよりー 2012年7月13日編集だより

2012.07.13

小岩井忠道

 8、9の両日、秋田県にかほ市にバス旅行をしてきた。にかほ市ふるさと宣伝大使を仰せつかっている編集者にとっては、今回が4回目の訪問となる。ほかの大使たちの知人、友人も加わり、参加者は40人近い。バスの後部座席は出発早々、宴席と化す。女性の年齢は判別困難だが、男性参加者の多くは明らかに編集者より年上だ。とはいえ、朝早い出発にもかかわらず前夜遅くまで飲んでしまったハンデは重く、頭も重い。これまで逆らったことのない高校の大先輩(相撲部OB)からの再三の誘いも、きっぱり断る。とうとう車中8時間余りの間、アルコールは一滴も口にしなかった。どうせ、夜、また飲むわけだし…。

 にかほ市は、象潟(きさかた)、仁賀保、金浦(このうら)の3町が合併してできた市だ。円高その他による製造業不振の波は市にまで及んでいることを知る。夜の懇親会で久しぶりに顔を合わせた横山忠長市長によると「8つあったTDKの工場のうち4つが閉鎖となった」とのこと。TDKの創設者、斎藤憲三がここの出身で、地元にとっては今でも大事な企業である。工場閉鎖の影響はTDKにとどまらず地元の中小企業にも及ぶ。そうした苦境にある市長が力を注いでいるのが、バングラデシュとの交流という。「人口1億6,000万人のうち30歳以下が6割を占める」(横山市長)。そんな若々しい国との企業協力に活路を見いだそうとする市長の積極姿勢が頼もしい。

 象潟は、芭蕉が奥の細道紀行で訪れた最北の土地として、多くの人に知られる。「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」。鳥海山の噴火で吹き飛ばされた山塊によってできたという100を超す島々が潟湖に浮かぶ風景を、芭蕉はそう表現している。市の名前も「象潟」にした方が多くの人にすぐ分かってもらえてよかったのでは、と編集者などは思うが、合併時にいろいろ事情があったらしい。

 芭蕉が訪れて115年後の1804年、象潟大地震によって、風景は一変してしまう。地盤が象潟付近で2メートル近くも隆起し、一帯が陸になってしまったからだ。「18、9間ばかりの鯨、田畑で上がり、尾ばたきしていた」。にかほ市の南に位置する酒田ではそんな光景が見られた、と記した古文書も見つかっているそうだ。地震の揺れだけでなく津波の被害も広範囲にわたったということだろう。とにかく潟を陸地に変えてしまうような直下型地震がわずか208年前に起きているのだ。「日本海側は太平洋側に比べ大地震は少ない」などとは、到底言えない。

 芭蕉が訪れた時は島の一つだった場所に蚶満寺(かんまんじ)という寺がある。芭蕉だけでなく、その昔は西行も訪れたという古い寺だ。領主たちも蚶満寺を含む象潟の観光価値を大事にしていたという。今、海岸に近いところではマツクイムシの被害にあった松があちこちで見られるのに対し、蚶満寺の周辺をはじめ、かつて島だったところにある松は手入れがよいため全く被害がないそうだ。領主たちが景観保持のため農民たちに植林を勧め、石垣を造ったり、農地開発を禁ずる政策をとったことが、今に生きているということらしい。

 ところが、象潟大地震を機に領主たちの態度が一変した、というから面白い。蚶満寺を案内してくださったボランティアの方の話と、帰京後、分厚い「象潟町史」(象潟町発行、2002年)をめくって分かったのは、以下のような経緯である。

 蚶満寺を含むこの地域を支配していた本荘藩は、象潟地震の被災地復興などで多額の借金を抱え込む。そこで考えたのが地震で干上がった潟を水田にしてしまおうという財政再建策だった。水田にするには、干上がった土地を平にする必要がある。そのために必要な土を得るため、かつて海面から顔を出していた島を削ることを考えた。実際に藩はそうした工事に着手する。これに覚林という蚶満寺住職が逆らう。

 覚林が頼ったのが、京都の宮家「閑院宮」だった。新井白石の提案で創設された宮家だそうで、確かに蚶満寺の山門の屋根瓦には一つ一つ菊の御紋が焼き込まれている。藩も宮家の干渉に素直に従ったわけではない。覚林は潜伏先の江戸で捉えられ、獄死という悲劇的な最期を迎えるが、島を大きく切り崩す形の開田もまた覚林の訴えを受けた「閑院宮」の介入で阻止されたということだ。

 自然遺産より目先の財政再建を優先した本荘藩領主と、天下の景勝地の姿を少しでも残したいとする蚶満寺住職とこれを後押しした宮家との争いは、興味深い。原子力発電を維持したい側とこれを阻止したい側の、これからも続く争いに思いを巡らせると、なおのこと…。

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