日曜日(24日)、初めて葛飾区の青砥へ行った。「かつしかシンフォニーヒルズ」で行われた立教大学グリーンフェスティバルを聴くためだ。立教大学グリークラブOB会の音楽監督、田中秀男氏が、毎年、招待券を送ってくださる。元栃木放送報道部長で、通信社時代から親しくさせていただいている方だ。
立教大学グリークラブ名誉部長の皆川達夫氏によると、音楽大学以外で戦前から音楽専門の教授を置いている大学は立教大学だけだという(皆川氏が2代目の教授)。今回の演奏会はグリークラブの創設者でもある初代の音楽学教授、辻荘一氏の没後25周年メモリアルと銘打っていた。
そんな伝統あるグリークラブだから毎回、重厚な宗教曲がメインの演目になっているのは、よく分かる。同時に、編集者のような耳の肥えていない聴衆も飽きさせない曲目が毎年、用意されているのがこのフェスティバルのありがたいところだ。最初に、荒井由美作詞・作曲の「やさしさに包まれたなら」など、学生たちの混声合唱「愛唱曲集」を楽しませてもらう。
後半に登場された田中さんは、まずOB・OG混声合唱団「トリニティコール」を指揮し、「混声合唱のためのヒットメドレー『HANA』」(三沢治美編曲)で、これまたなじみの曲を聴かせてくれた。出だしの「花」(滝廉太郎作曲)は1番だけだったが、中学時代に習った二部楽章とはだいぶ感じが違う。続いて出てくる曲も期待通りだったので、帰宅後ウェブサイトで調べ、編曲者は作曲だけでなくピアノ、写真、デザインと多彩な表現能力を持つ若手芸術家と知る。
こちらにも松任谷(荒井)由美作曲の「赤いスイートピー」が入っており、苦笑いしながら大いに楽しませていただいた。最初に出てきた「花」とこの曲はつい最近都心のあるところで酔いにまかせて歌ったばかりだったからだ。「低音部を歌うから」と偉そうに店の女性と一緒に「花」を歌い出したのはよいが、すぐにつかえてしまい歌唱力以前の記憶力の衰えを思い知らされる羽目に陥った。
最後の曲は、現役、OB・OG合同のステージでトーマス・ルイ・デ・ビクトリア作曲の「レクイエム」という大曲である。ビクトリアという人は聖職者でもあり、宗教音楽以外の作品を1曲も書かなかったという。1611年には亡くなっているから、バッハやヘンデルよりはるか前の音楽家ということだ。ピアノの伴奏がつかない声だけの演奏を聴きながら、前に田中氏から伺った“衝撃的”な話を思い出した。
伴奏なしで演奏する合唱曲の場合、例えばミの音はピアノのミの音とは違っている、というのである。その時、あわてて調べ、完全無欠とばかり思っていた現在の西洋音階が、諸々の理由から便宜的に音の高さが設定された音階(平均律)だと知った。全ての洋楽器でどんな長調、短調の曲でも演奏できるという実に合理的な音階だが、周波数でもって厳密に規定される音階に比べると、ド、ファ、ソ以外の音はわずかだが“本来”の周波数からずれている、ということらしい。例えば「ミ」は、本当は「ド」の1.25倍の周波数なのだが、ピアノをはじめとする楽器(平均律)の「ミ」は、約1.266(64分の81)ということのようだ。
「レクイエム」の見事な合唱が終わった後、アンコールで歌われたのはよく耳にするバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」という曲だったらしい。再び、ピアノの伴奏がついた。ということは、同じ合唱団が、再び平均律の音階に戻して歌い上げたということだろう。無論、編集者に違いが聞き分けられるはずもなかったが、本当に合唱団の皆が皆、音階をそっくり入れ替えて歌うといった器用なことができるものだろうか。周波数にして0.016倍の違いしかない「ミ」の音をはじめとして…。
高名な指揮者、故岩城宏之氏に「音の影」(文芸春秋)という著書があり、この中に「絶対音感」と題する一文があるのを図書館で見つけ、読んでみた。こう書いてある。
「合唱の演奏の醍醐味は、美しいハーモニーだ。…難しい理屈は抜きにするが、美しい『ハモり』を続けていくと、音響学的な倍音の法則からいうと(編集者のおせっかいな注でいえば、周波数で規定される音という意味だろう)、1曲演奏する間に、全体の音の高さが半音の4分の1ぐらい下がってくるのが自然である」
これでも、理解を超える話だが、以下の記述がもっとすごい。プロ合唱団には、3分の1くらい絶対音感の所有者がいるのだそうだ。この人たちは、演奏する間に全体の音の高さが半音の4分の1くらい下がっても、どうということないだろうと思うと、逆だというのである。
「彼らは、死ぬ思いで、耳の中の鍵盤をちょっと下げて歌ったりする」そうだ。
ところで、この記述によると絶対音感の持ち主の絶対音感とは、平均律で決められた音だろうと推測できる。より耳に心地よい音階が、倍音の法則で決められたもの、おそらくビクトリアの「レクイエム」で歌われた音階だったとしたら、年がら年中、絶対音感の持ち主は「死ぬ思いで」声を出しているということになってしまうから。
となると絶対音感なるものも、いわば慣れによって得られた能力ということになりそうだが、どうだろう。自然の摂理にかなったというより、人為的に設定された平均律の音を覚え込んだだけという…。