今に至るまでNHKの朝の連続テレビ小説を観る習慣はないが、ここから多くの女優が羽ばたいたことくらいは知っている。テレビがつけっぱなしだった通信社の職場で昼の再放送を時折、聞くともなしに聞いていたからだろう。主人公が常に(あるいはほとんど?)女性であることについては、女性の方が男性視聴者にも女性視聴者にも受け入れやすいからだろう、くらいにしか考えていなかった。
しかし、1日から日経新聞朝刊で連載が始まった米沢富美子慶応大学名誉教授の『私の履歴書』初回を読んで思いつく。女性の方が多くの人の共感を呼びやすいからではないか、と。一生を通して、言うこともやることもはっきりしていてだれにも分かりやすいから。
「思えば『なぜ』『どうして』を問い続け、そのいくつかを自分の手で明かしつつ歩んできた73年間だった」「自然の原理の解明。こんな面白い仕事はない。もう一度生まれ変わっても、必ず物理屋になる」
米沢先生の言葉は、実に明快だ。さらに「研究内容を競って大型の科学研究費を勝ち取り、領域全体のリーダーにもなった」「物理学会の会長に選出され、学界運営の改革にも着手し…実現した」「半世紀におよぶ研究生活で上げた成果のいくつかが『幸運』にも教科書に載ることになり、面目を施した」「成果の中でも最も重要な2つのテーマについて専門書を書き残すことにした。…両方とも世界に問いたい内容で、英語版の執筆も計画している」など、年齢を重ねても変わらない前向きの言葉が続く。
わが郷里で、人を表現するときによく使われる言葉がある。「外面(そとづら)がいい」。愛想や気前が良い、という意味だが、家族以外に対してというところがみそだ。褒め言葉とは言えない。お金に大した余裕があるわけでもなく、家族にお土産の一つも買ってくることなどもほとんどないのに、家族以外にはいい格好をしたがる。飲食した時など、自分1人で勘定を払おうとするなど…。
とにかく「外面がよい」という人物評価は、特に「お金と時間を自分と家族以外に使いたがらない」人には理解しにくいと思われる。男性に対してよく言われるが、女性に対してはあまり使われないのも、また男性の気質の分かりにくさを裏付けるものかもしれない。
小津安二郎監督に「一人息子」(1931年)という作品がある。これまで観たことがない数少ない小津作品と気付いたので、しばらく前に買っていたDVDを観てみた。母の手一つで息子を育てた飯田蝶子が信州から息子に会うために初めて上京、夜間大学の教師をしている息子をなじる場面がある。
もう家も土地も手放してしまい、今は○○さんの寮に住まわせてもらっている。そんなにまでしてお前を東京の大学までやったのも偉くなってくれると思ったからこそ。お前もそう言っていたではないか…と。
もちろんこれでこの映画が終わるはずはない。母親を東京見物させるために妻が着物を質に入れて作ったお金を、子供が馬にけられて病院に運び込まれ困惑している隣の家の母親に渡してしまう。こうした姿を見た母が息子を許す気になる、というのが結末だ。
多分、NHKの朝の連続小説に向いた話ではない。常に前向きな女性が困難をものともせず行き続ける話とはだいぶ違う。
西村和雄・京都大学経済研究所特任教授は、4日から連載を始めた当サイトのインタビュー記事「物理を学ぶ若者増やせ」で、高校までに数学と物理を得意にしていた人ほど社会人になってからも高い処遇を得ていることを強調している。しかし、高校生で暗記が多い生物を学ぶ生徒は増えているのに対し、論理的で数学を使う物理は減り続けているのが現実。理科の中で物理を避ける傾向が、高校生全体だけでなく、理系学部志望者の中でも起きている、とも。
5月24日科学技術政策研究所が公表した報告書「日本の大学教員の女性比率に関する分析」(2012年6月4日レビュー「大学教員の女性比率が依然低いのは」によると、日本の大学の博士課程修了者のうち女性の占める割合は、1975年にわずか5.8%だったのが、2010年には28.4%に増えている。35年で約5倍という増加は心強い限りだが、実は増えたうちの4人に1人は外国からの留学生だ。特に留学生が多いのが工学系で、45.9%を占める。物理離れは、理系学部を志望した日本人女性も同様であることが、この調査結果からも伺える。
しかしながら、本来、女性は男性より数学や物理を苦手とするなどと考える人は、今時そういないのではないか。
「私も物理を一生懸命やる」。米沢富美子慶応大学名誉教授の私の履歴書を読んで、そう決心する女子高校生がたくさん出てくれば日本の未来も明るい、となりそうだが…。