レビュー

編集だよりー 2012年3月28日編集だより

2012.03.28

小岩井忠道

 「『銀座○○』のママと先日、街頭ですれ違ったよ」。10日ほど前、通信社時代の同期生に言われた。1、2度連れて行っただけなのに少々信じがたい。しかし、「近々、行こう」と言うので、すぐ話はまとまる。

 約束したこの日、店に着くと先方は既に到着して、ママと親しげに話していた。友人の言った通り、街頭で顔を合わせた時に双方とも気付いていたという。友人は3回来たことがあるというが、忘れたころにしか来ないような客の顔まで覚えているとはなあ。プロ意識につくづく感心する。

 「北村英治が出ている店がある。この後、付き合え」。ひとしきり酒と料理を楽しんだところで、友人が言う。ここはご馳走になるけれど次はおれが持つ、という意味だ。その日のうちにお返しをするというのは、この友人らしい。

 JR有楽町駅前、交通会館のそばにあるライブハウスに着くと、店内は客でいっぱいだった。しかし、受付の女性は昨年サラリーマン生活からめでたく解放された友人のゴスペルサークル仲間だ。ピアノとベースのすぐ脇という演奏者たちがよく見える席に案内された。82歳という北村英治氏の年齢を聞いて、こちらのプロ意識にも驚嘆する。クラリネットというのは全く経験がないわけではないから、肺活量は大丈夫か、などと心配してしまう。ベニー・グッドマンの有名な曲を3曲続けた後、うれしいことに「アマポーラ」を演奏してくれた。それも、「ラテン風ではなく、映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』で演奏されていたように」という前置きの上で。

 既存の曲を、映画の重要な場面に使うやり方は、たくさん例があると思う。しかし編集者の知る範囲では、この映画におけるこの曲の使い方は特にしっくり画面に溶け込んでいたように思う。

 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(セルジオ・レオーネ監督・脚本、1984年)に、見入ってからだいぶたつ。米国のギャングといえばイタリア系とばかり思っていたらユダヤ系ギャングの話。というのにまず興味を引かれた。男性主人公5人の悪ガキ時代を演じた少年たちが、成人役のロバート・デ・ニーロやジェームズ・ウッズらにそれぞれよく似ている。よく探し出すものだ、と感心したものだ。彼らが悪さやいたずらを繰り返す古いニューヨークの街の描写もまた、どこかで見たような懐かしさが感じられて心地よかった。

 ロバート・デ・ニーロの少年時代役に、壁の隙間から踊っている姿をのぞき見される少女(女主人公、エリザベス・マクヴァガンの子ども時代を演じたジェニファー・コネリー)もなかなかよい。後年「ブラッド・ダイヤモンド」(エドワード・ズイック監督、2006年)の主役を演じていたのを観て、驚いたものだ。

 日本映画がひところに比べ精彩を欠いているのは、俳優陣の層が欧米に比べ何とも薄くなってしまったからではないだろうか。寂しい気持ちになる。

 帰宅して夕刊を見たら、日経新聞のらいふ面に歌人の俵万智さんが「美人は性格がいい(と私は思う)」という面白い随筆を書いていた。「あなたは、なんで美人とばかり友だちになるの? いっつも引き立て役なんだから」。母親がため息をついたことがある、というくだりに笑った。

 「美人は性格がいい」というのは、実は編集者も全く同感だ。子どものころから、人の気を引こうとして妙な自己主張などする必要がないから…。そう考えるとうまく説明できる、と勝手に思い込んでいる。幼稚園、小学生のころから学芸会の主役など黙っていても回って来る、といったように。家が裕福だったりしたら、鬼に金棒だろう。

 しかしである。美人だと思われている側に、悩みはないのだろうか。通常、整形手術でもしない限り、ある時から急に美人になるということは考えにくい。小さい時から可愛らしかったと思われていた人がほとんどだろう。「○○ちゃんは、得だねえ」。いつもそう言われるからあの人は嫌だ、と不満をもらした少女(当時)を知っている。

 「特に努力しているわけでもないのに、何でもうまくいってしまうからいいねえ」。そう言われたのと同じではないか、ということらしい。

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