神楽坂の入口からちょっと坂を上がりかけたばかり。便利な場所のビルの1室に神楽坂法律事務所・神楽坂法医学研究所が開所した。「とにかくインチキは許さん」という姿勢が明快な法医学者、押田茂實・日本大学名誉教授が、若手弁護士の水沼直樹氏と共同で立ち上げた事務所だ。
押田氏には、昨年暮れにもオピニオン欄に「刑事事件における検察官(警察官)の証拠の取り扱い」という寄稿をいただいている。この中に「日本の刑事弁護士は、検察官手持ちの証拠の内容も分からずに弁護しなければならない」という問題点が指摘されている。最近の裁判で、それまで検察官が法廷に出していなかった被告に有利な証拠が明らかにされる事例が続いたことに対する痛烈な批判だ。例えば、「検察官は被告人に有利な証拠でも開示義務を課されていて、証拠を隠匿すれば法廷侮辱罪で刑事責任が問われる」という米連邦最高裁の判例がある事実も紹介されている。
お祝いの日本酒を下げただけで気軽に出かけたのだが、押田氏の人となりにあらためて感服した1日となった。氏が和服姿だったこと、なぜ神楽坂に事務所を構えたか、という理由も十二分に思い知らされることになる。「開所式」という案内だったが、要するに親しい親族、お弟子さんたちをまとめて歓待しようということだった。料亭「牧」で開かれた祝宴では、正月らしく日本髪に結い上げた芸者さんらの踊りを楽しむ、というぜいたくに浴する。ご夫妻のご兄妹やお弟子さんたちのご相伴にあずかった身としては、光栄で何とも分不相応の歓待としか言いようがない。
葛西昌医会病院整形外科・リウマチ科部長を務めておられる夫人の翠さんに祝宴の前に神楽坂を案内していただいた時も仰天した。こんな路地にこんな店が、という神楽坂の魅力をあらためて教えられたが、それぞれの店をよくご存知なのだ。「ここはとても美味しい料理を出す」というレストランでは、経営者夫妻を紹介していただく。そのうち通信社時代の友人がよく使っていた日本料理店の前にきた。「ここは友人に連れられて何度か来ました」というと、開店前の店に入り、予約を入れていたのに驚く。「いつもいっぱいで、特に2階の部屋はなかなか取れない。女将さんもいい人で…」というお褒めの言葉に、こちらもうれしくなる。年配の女将さんは編集者と同郷で、父上とは年齢が違いすぎて無論面識はないのだが、高校(旧制中学)の大先輩と聞いていたからだ。
しかし、ご夫妻が神楽坂にすっかりとけ込んでおられる様子は半端ではない。後で押田氏に伺ったところ、もう住み始めて25年になるとのこと。「芸者さんたちも親類みたいなもの」と言うのにも納得し、あらためて敬服する。医学者として著名な人はいくらでもいるだろうが、住民として地域にとけ込んで、かつ地域にしっかり貢献もしている人というのはそういないのでは、それも夫妻そろってという方は、と…。
「個人情報保護などが強く言われ、犯罪捜査の聞き込み情報には期待が持てなくなるのが心配。法医学をもっと重視しないと困るのは自明と思われるのに、文科系主導の日本の司法界には科学捜査、科学的証拠を軽くみたがる風潮があるのでは」。祝宴の前に新しい事務所で氏に尋ねてみた。
「日本の司法界は、○○大学、○○大学、○○大学の法学部出身者が特別大きな力を持っている。政治家を見れば分かる。これら3大学法学部の出身者で有罪になった人はいない」
3つの大学法学部を出た政治家からは何としても有罪人を出さない! そんな“不文律”が司法界にあるとすると、もっと理系(的考え方)を重視するべきだ、法医学(者)をもっと尊重しろ、などというのは、だいぶ重要度の低い話ということだろうか。