レビュー

編集だよりー 2011年12月1日編集だより

2011.12.01

小岩井忠道

 年内には、と弁護団が言っていた通り、福井女子中学生殺人事件で名古屋高裁金沢支部が11月30日に再審開始の決定をした。1986年3月、卒業式を終えたばかりの女子中学生が自宅で数十個所を刺された上、電気コードで首を絞められて殺されるという凄惨(せいさん)な事件である。

 最近、またニュースになることが多い「東電OL殺人事件」から、古くは「名張毒ぶどう酒事件」、「袴田事件」と、冤(えん)罪だと主張する声はいくつか耳にしている。その中でも、この福井女子中学生殺人事件は、有罪の根拠が著しく乏しいとしか思えない。判決が有罪の根拠としたのは、「服に血を付けた前川さんを見た」とする複数の目撃供述以外、決定的なものはない、と弁護団は言っている。裁判で証拠と認められた中には、未決拘留中だった元暴力団組員の供述もあるのだ。

 容疑者が観念して別の悪事も明らかにする、というのはあり得ることでは、と思う人もいるかもしれない。しかし、この場合は、供述者と警察の間に“取り引き”があり、自身の量刑を軽くしてもらう代わりに、警察に都合のよい供述を創作した可能性が高い、と弁護団は見ている。

 毎日新聞30日夕刊の一面には、殺人犯として既に7年の服役を済ませている前川彰司さんが記者会見した写真が載っていた。前川さんの両脇にいるのは、5月に再審で無罪判決が出た布川事件の桜井昌司氏と杉山卓男氏である。再審決定ということは、布川事件に続き、再審で無罪判決が出る可能性が高くなったということだろう。こうした写真を、両事件で有罪判決を出し続けた裁判官や、有罪を主張し続けた検察官たちはどんな思いで見ているのだろうか。あらためて、考え込んでしまった。

 犯罪を扱った小説や映画は昔から多い。裁判官や検察官が主人公というのも幾つかはあるのだろうが、主人公は大抵、探偵や警察官だ。探偵では作り話じみてくるからだろう。最近は警察官が主役なのが圧倒的に多いように見える。凶悪な事件を起こした人間が、のうのうと生活していけるような世の中は嫌だ。多くの人がそう思うから警察官の行為に共感する人も多い、ということがもう一つの理由ではないだろうか。

 冤罪の発端は、特捜検事に責任があるごく一部の事件を除けば警察官に責任がある。だから、凶悪犯罪の摘発率が大幅に下がっても警察官の勇み足はゼロにすべきだ、と考える人もいるだろう。一方、警察官が悪人を憎む気持ちが強ければ強いほど、まれに勇み足が出るのはあり得ること、と考える人もいるのではないだろうか。

 しかし、どちらの意見を持つ人でも、警察官の勇み足があれば、検察官がそれを見抜いて無実の人間を不幸にすることを防ぎ、検察官が警察と同じ間違いをしたら、裁判官がそれを正すべきだ、という考えでは一致するのではないだろうか。実際、高潔な裁判官だったという評判が高い木谷明・法政大学法科大学院教授(元東京高裁判事、最高裁調査官、囲碁棋士、木谷實九段の二男)は、いったん有罪とされた人間を無罪にできるのは裁判官だけ、という意味のことを言って、裁判官の責任の重さを強調している、と聞く。

 東日本大震災で、原子力発電所の炉心溶融、放射性物質の大量放出という事態を招いたことに対する科学者、技術者の責任を問う声が高い。科学者、技術者側から反省の声も聞かれる。

 冤罪であることが分かった、あるいは冤罪の可能性が疑われる裁判例が次々に明らかになっている現在、検察官や裁判官の責任というものにももっと厳しい目が注がれて当然ではないだろうか。証拠の是非を見分ける能力に深く関わる検察官、裁判官の数学・科学リテラシーに対しても同様に。

 ゆとり教育や大学入試の少数科目化によって高校、大学できちんと数学や理科を学んで来なかった人たちが、これまで以上に法曹界に増えているという現実はないのだろうか。

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