レビュー

編集だよりー 2011年10月15日編集だより

2011.10.15

小岩井忠道

 ホール落語のはしごというのを初めて経験した。昼の読売ホールは三遊亭白鳥、柳家喬太郎といった人気者の競演で、夜は三遊亭兼好の独演会だった。前座が全く同じ噺だったのが愉快だ。訪ねてきた客が早口でまくしたてるあいさつをおかみさんたちが聞き取れず、帰宅した主人の問いにしどろもどろになるばかり、という噺(はなし)である。早口言葉の羅列のような客の話がさっぱり分からないのは、大半の聴衆も同様だろう。1個所だけ「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」という有名な句だけがどういうわけか入っており、そこだけは編集者も分かった。そういえばこの噺は前にも聞いた覚えがあり、その時も確か前座がやっていた。前座向きのネタなのかもしれない。

 前回の編集だよりで引用した「落語とはなにか」(矢野誠一著)に、考えさせられることが書いてあった。落語では「間」が大事で、この「間」は歌舞伎などの「間」とは違う。落語の「間」は、あくまで聞き手に笑いを与えるための技術。特に古今亭志ん生は独特で、「ほどよい間があって飛び出してくる言葉は、きまってきき手の意表をついたもの」だったという。こういうことができるのも志ん生の類いまれな「諧謔(かいぎゃく)精神、批評精神」のなせる技ということだ。

 「間」という言葉をわざわざ入れた脚本というのはあるそうだが、新聞記事の類に「間」というのはない。読み手に一呼吸置かせるための手法は、通常は段落だけだ。ウェブサイトには誰が始めたのか知らないが、1行まるまる空白にしてしまうというやり方があり、当サイトも最初からそうなっている。新聞や雑誌は1行まるまる空けるというような無駄はやらない。一字下げるだけで段落であることを示す。では、落語における「間」に相当する手口は、新聞や雑誌の記事では不可能だろうか。と考えて、そうでもないかな、と思い浮かんだことがある。編集者などが、深く考えもせずに使っている手法だ。

 これもまたこれまで折り入って考えたことはなかったが、落語と新聞記事には共通点がある、と思う。途中で聞き手、読み手がつっかえてしまうようではまずい、ということだ。新聞の場合は、一つの記事で例えば、自由貿易協定(FTA)と一度書いたら、2度目からFTAとしか書かないのがルールだ。記事に2度目に出てきたFTAが何のことか読者の相当数が分からず、最初から読み直すという手間をかけているかもしれない、といったことなど無頓着にである。読み手が途中でつっかえるようではいけないという制約が、落語ほど厳しくないということだろう。最初に出てきたのを忘れたら読み手の責任だから読み直せ、ということだから。

 話を戻す。編集者が深く考えずに使う「間」に似た手法というのは、段落を変えた最初の文をかぎかっこに入れた話し言葉にするという簡単な方法だ。これで文章の流れが変わるだけでなく、読み手の意表を突くという効果がひょっとしてあるのかも、と初めて気付いた。かぎかっこのついた話し言葉が、急に出てくると、普通の読み手は、こんなことを言ったのはだれか、と次を読みたくなるかもしれないから。無論、志ん生のように「諧謔精神、批評精神」に裏打ちされたものではないにしてもだ。

 「最近の学生は新聞をあまり読まないというのはどうも本当らしい。…今は高校卒業生の五十数%が4年制大学に進学する時代だから、同世代では彼らが社会の多数派である。それが新聞を読まなければ、他の人たちはもっと…」。津田廣喜・早稲田大学教授が11日の日経新聞夕刊「あすへの話題」欄に書いていた。

 思い返すと似たようなことは、もう20年前あるいはもっと以前にもだれかが書いていたような気がする。「今の若者は…」という文句は大昔から年配者の常套(じょうとう)句だとも聞く。それにしても現状は、新聞を購読していなかった世代が親になり、その親に育てられた子どもたちが大学生になっている、ということだろうか。

 15日から新聞週間で、津田教授の記事も新聞週間を念頭に書かれている。恐らくせっかくの記事が大学生の行動に影響を与えることはないのだろう。そもそも記事を目にした大学生がどれほどいるのか分からないのだから。

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