他の新聞、通信社出身者と共に今の職場で文章講座の講師を勤めたことがある。自分にできもしないことは身近な人にも求めない、というのが昔からの主義だ。何が何でも記事にしなければならない時は別にして、1時間程度、人の話を聞いて後々まで覚えていられるのは一つか二つ。長年の経験でよく分かっている。それに文章講座の受講者も大半は新聞など購読していない人たちらしい、と聞いた。広報記事を書くときの注意なんてことを細々話してもほとんど頭に残らないだろう、と思ったわけだ。
一つだけ記憶に残ってもらえばよいという考えに落ち着いた。
外国語はよく知らないが、日本語には明らかな特徴がある。述語が最後に来るのが普通の文で、動詞の過去形で終わることがこれまた多いから、大半の文の末尾が「た。」になってしまう。特に新聞記事などは漫然と書いていると、「た。」で終わる文のオンパレードになりかねない。これだと文章に変化がなく、読んでいるうちにうんざりしてくるから、こいつを何とかする工夫が必要。キツネ狩りならぬ「“た”抜き狩り」を心がけるだけで、文章はだいぶ違ってくるはず。なんて話で1時間つぶしたものだ。
井上ひさし氏が亡くなった。古書店で買ったまま1ぺージも読んでいなかった氏の著書を取り出してみた。「自家製 文章読本」(新潮社、1984年)である。
氏はこの本の中で三島由紀夫の「文章読本」を度々引用している。その理由は明快だ。「隅々にまで立ち籠めている大衆小説・娯楽小説・読物小説の書き手たちへの意味もない蔑(べっ)視が、読むたびにこっちをいらいらさせる」。要するに感心して引用しているのではない。「オノマトペ(擬声語、擬態語)」がよく出てくる文章を三島は軽蔑しているくだりが、紹介されている。文章の格調が高いのは擬音詞(オノマトペ)が少ないためだ、と森鴎外を引き合いに出して、擬音詞のことを「子どもが文章の中で使いたがる」とまでけなしている。
無論、井上ひさし氏がこれに賛同するはずもなく、そもそも鴎外が「オノマトペ」を嫌ったということ自体が事実誤認だと反論しているのだ。
氏は当然、語尾が「た。」あるいは「る。」で終わることが多いという日本語の特徴も指摘している。ただ、「作家たちはこの宿命を本能的に感得していた。そこで単調な文末を運命として受け入れ、それを必死で磨き上げ、驚くべきことに一つの美学にまで高めた」と、川端康成の作品などを例に挙げて、書いている。なるほど、単に「た。」で終わる文を減らせば読みやすい文章になる、というのは新聞記事のレベルで通用する話ということのようだ。
もう一つ氏の指摘で感心したことがある。日本語の文は動詞で終わることが多い。しかも「大事な動詞ほど使われることが多いだけに、摩滅し、力が衰えている。つまり大事な動詞ほど文末を決定する力が弱い」というのだ。なるほどこういうことを折り入って考えたことはなかったが、思い当たることである。「行う」という動詞などはできるだけ使いたくない、というように。
この文末を決定する力が弱いというそれこそ決定的とも思える日本語の弱点を補ううまい手はあるのだろうか。
「思い遣った」「差し込んだ」「引き出した」「押し付けて」「吹き暴れて」…。2つの動詞をつなげて使うことによってひ弱な動詞の力を強める。これが一つの方法で、さらに、オノマトペが、それを補強する役割を果たすと氏は指摘している。
例えば「歩く」というだけでは弱いとみた場合、「跳ね歩く」「捜し歩く」「彷徨(さまよ)い歩く」などとして、さらに「いそいそ」「「うろうろ」「おずおず」「すごすご」といった擬音・擬態語を選んで「歩く」を補強する。
このくだりを読んで、思い至った。井上ひさし氏の「自家製 文章読本」の方が三島由紀夫の「文章読本」より、よっぽど上を行くのではないか、と。
「文章読本なるものはこれまで1冊しか読んだことはない」。恥ずかしげもなく言い放って、文章講座を済ませてしまった自分を大いに反省した。2、3引用したその「文章読本」が、はるか昔に読んだ三島由紀夫の本だったのである。