住民投票があるので国民投票は無理してやらなくてもよい、という主張は理解に苦しむ—。自身の取材経験を基にオピニオン欄に記事(2011年6月29日「日本の国民投票を考える」参照)を書いていただいた田中良太氏の取材対象は多様だ。
全国紙、通信社の組織というのは世間が考えるよりはるかに縦割りではないだろうか。友人の新聞記者に気軽に電話をかけて事件にかかわる情報を教えてもらう—。松本清張の推理小説に出て来るようなことは、まずほとんどないはずだ。事件記者が自分の知り得た機微な情報は、社内だって、必要最小限の人間にしか話さないのが普通だろう。編集局各出稿部間の異動もそもそもあまりない。大半の記者は地方支局から本社に転勤すると、政治部に入ったらずっと政治部、経済部には行ったら経済部、外信部に入ったらずっと外信部という記者が大半ではないだろうか。3つ以上の出稿部を経験するのはよほど幸運ということになる。むしろ何か問題を起こしたのでは、などと疑われたりするかもしれない。
田中記者はどうだったか。奈良支局、大阪社会部、京都支局と、毎日新聞大阪本社管内で11年間、東京本社に移ってからは特別報道部にまず配置される(部の名前からして部を横断するようなテーマの取材を経験したと思われる)。政治部に移ったのが入社15年目だった。政治部の副部長にまでなった後で、取材対象がまるで異なる学芸部の部長になり、その後、編集委員室長(途中から論説委員兼務)という経歴もうらやましいくらいユニークといえる。
政治部の経験が6年程度だったことが、普通の政治記者とはだいぶ感覚が違う理由だろう。4日配信のメルマガ「政治家が好きという異常感覚—日本の政治論議を支配する人たち」にそうした田中氏の面目躍如ともいうべき主張が展開されている。
やり玉に挙げられているのは、高名な政治記者で毎日新聞特別編集委員の岩見隆夫氏だった。毎日新聞の毎土曜朝刊に連載しているコラム「近聞遠見」の最新記事を取り上げ、岩見氏が政治家と会うのを楽しんでいるのが文面からよく分かる、と指摘しているのが目を引く。編集者にも思い当たることがある。
あれは、通信社や多くの新聞社が毎年行っているマスコミ志望の学生たちに対する講習会の席だったろうか。政治部次長が、政治記者の活動を紹介する中で「政治家というのは魅力的な人間が多い」と言ったことをよく覚えている。紙面だけでなく、雑誌やテレビで活躍する記者、元記者で最も多いのは政治記者と思うが、大体は政治家を手厳しく批判することがほとんどだ。素直に政治家に対するプラスのイメージを語ったことが、新鮮に感じたのだろう。
時は流れて、この政治部次長が政治部長を経て編集局長になってからの話だ。編集者は電子、電波メディア向けに映像、音声を含むニュースを配信する局で仕事をしていた。毎年1回、全国の放送局の報道・報道制作局長に集まってもらう大きな会議をわが局の主催で開く。ある年の会議で冒頭に講演をしてもらった自民党の有力政治家が「ちょうど今ごろ○○で○○という結果が出ているころだが」という言葉を挟んだ。
「確認して」。隣にいた編集局長に言われた。すぐにピンと来ず、しばらくしてようやく理解する。政治部に問い合わせて結果を講演中の政治家に伝えろ、という意味だ、と。無論、言われた通り後輩に指示して届いたメモを、講演中の政治家に恭しく差し出したことを思い出す。
政治記者の舌鋒(ぜっぽう)、筆鋒(ひっぽう)は非常に厳しいが、実際の政治記者と政治家の関係も同様だと思ったら大間違い。むしろ取材者と取材される側の日常的な関係では最も親密なのが政治の世界ということだろう、とあらためて感じたものだ。
田中氏のメルマガに戻る。氏は、岩見隆夫氏が85歳になる政党人、曽我祐次氏との会話を引いていろいろ今の政治の状況を論じているのを評し、「政治家と会うのが理屈抜きで『楽しい』というのがホンネであること丸出しだ」と書いている。「政治家と会話することが苦痛でなくなるだけでも、フツーの人とはかなりかけ離れた感覚である。その『異常感覚』の人たちだけが政治を語っているのが、日本の政治報道・論評の現状と言える」とも。
政治記者の主要な取材行動である「懇談」(自宅への夜回りが多い)についても容赦ない。
「話のテーマ、内容は政治家の思うがままである。誰も質問しないことについて、政治家が一方的にしゃべりまくる。多くは自画自賛であり、聞くに堪えない」。懇談を聞いた記者たちのその日最後の仕事は、社に戻って政治家が話した内容を「情報簿」に書くことで、「政治部在籍10年前後の記者たちが、情報簿の内容から『政治の流れ』をつかみ、『政局原稿』といわれるものを書く」。
氏は、「これが政治部取材のすべてだ、などとは言っていない」と断っているものの、続く指摘も手厳しい。
「『懇談を聞き、情報簿を書く』という政治部記者の仕事は、新聞記者の仕事だとは思えない。新聞記者の仕事とは『取材し、記事を書く』ことなのである。『こういう記事を書こう』という意図があるからこそ成り立つのが取材である」
東日本大震災で日本社会が問われていることは深く、多岐にわたるに違いない。新聞、放送、通信という既存メディアにおける縦割り組織とそれをおかしいと思わなかった精神が、政治、行政をはじめとする日本社会の持つ基本的な欠陥を突けないまま、不公正、エートスの低下といった負の面をむしろ助長させてこなかっただろうか。
田中氏はネット時代の現在、「新聞社等のホームページ、データベースに丹念に目を遠し、政治家自身のホームページ、メールマガジン、ツイッターなども読むと、十分な情報を得ることができる。政治記者としては『落第』だった私は、それを逆手にとって、『政治家嫌いの政治論』を展開することに使命感を感じなければならないと考えている。『政治家嫌い』であって初めて、通常の人たちと同じ感覚になりうるのだ」と書いている。
マスメディア業界内の人たちも今までと同じように行動していては、社会に対応できない。政界、官界、学界などほかの世界の人たちも同様に、ということだろうか。