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日本の国民投票を考える(田中良太 氏 / フリージャーナリスト)

2011.06.29

田中良太 氏 / フリージャーナリスト

フリージャーナリスト 田中良太 氏
田中良太 氏

 6月12、13両日行われた原発再開の是非を問うイタリアの国民投票の結果は、94.05%が「原発凍結継続」だった。原発凍結を解除したいベルルスコーニ政権が実現させた国民投票で、「凍結解除」票は政権支持の意味も持つことになったとはいえ、反原発票の高率は驚くべきものだった。

 それを受けた朝日の社説は15日付。「原発と民意 決めよう、自分たちで」というタイトルで、国民投票賛成論のように見える。しかし末尾の結論は、「国民投票は容易ではないが、原発の住民投票なら、新潟県巻町(現新潟市)などですでに経験がある。停止中の原発の再稼働を問う住民投票を周辺市町村も含めてやるのも一案だろう」となっている。なぜか国民投票を避けている。

 3・11以降、「脱原発キャンペーン」的な紙面づくりをしている東京新聞「こちら特報部」も15日付で、「原発問う国民投票できないけどやりたい憲法で制約/住民投票は反対派完勝」をタイトルとした。

 市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」が5月に発足したことを紹介しながら、国民投票は「憲法の制約でできない」という結論を先行させている。

 記事中「全国民が投票する仕組みがないのは、日本が〝国会における代表者を通じて行動〟(憲法前文)する代表民主制を採用しており、国会を〝唯一の立法機関〟(同41条)としているためだ」という文章を盛り込んでいる。だから原発国民投票はできない、という論理だ。

 「過去の原発関連の住民投票では、“反原発派”の勝利が続いている」とし、旧新潟県巻町(1996年)で原発建設反対が、同県刈羽村(2001年)でプルサーマル計画反対が、旧三重県海山町(同)で原発誘致反対が、それぞれ多数を得たことを紹介している。

 朝日の社説も、東京の「こちら特報部」も、同じような論旨と思える。国民投票はできなくても、住民投票で「反原発」が勝つ。「それで良いのではないか」という主張である。

 私は現役新聞記者の時代、原発の建設候補地となった自治体を2カ所ルポした。ひとつは京都府久美浜町(現在京丹後市の一部=2004年4月周辺町と合併)であり、もう一つは高知県窪川町(現在四万十町=06年3月周辺町村と合併)である。久美浜町は1976年、窪川町は82年に訪ね、連載や、ルポ風記事を書いた。

 両町とも過疎化が進むムラだった。当然高齢化率は高く、長年の付き合いの町民たちが、肩を寄せ合って暮らしを維持するという雰囲気が感じられるムラだった。

 そこに、巨大な「原発立地」の構想がもち上がるのである。「経済効果」は巨大なものだ。まず原発建設のための雇用が発生し、近隣町村などから、建設作業員が入ってくるようになる。原発稼働後は、電源三法による交付金が町の収入になり、町財政は一挙に黒字に転換する。

 逆に安全性への疑念・不安も大きい。原発をつくる側の電力会社は住民への説明会などを行うのだが、納得する住民が「大多数」となったケースでさえ皆無といえるだろう。もちろん住民全体の了解など、理想像としてあるだけで、現実のものとはならない。

 住民投票となってもならなくても、ムラの政治は、「原発推進」と「反原発」で二分される。町長選、町議選はもちろん農業委員の選挙などでも、この単独イシューになってしまう。

 親子、兄弟でも、対立しあうことが珍しくない。大都会のように崩壊した地域社会ではない。かつての古き良き地域社会なのだ。隣人同士なら、冷蔵庫の中身、財布の中身まで互いに知り合っているとさえ言われた。

 そういう中で肩を寄せ合って生きてきた人たちが一転して対立しあうようになる。そのこと自体が、地域社会にとって、大きな悲劇なのだ。

 そんな中で、ともかくも暮らしが成り立っている人たちは、「反原発」を選択する比率が高い。こういう人たちは、そこそこの農地を持っている。農村なら農業で、漁村なら半農半漁で暮らしていける。そういう人たちは、町役場、農協などサラリーマンとしてのポジションも確保しているケースが多い。「原発なんか要らない」となる。

 それに対して、農地を持たない、あるいは狭い農地しか持っていない人たちは、貧しく苦しい暮らしを強いられている。道路補修などの「公共事業」がなければ、現金収入がないという暮らしである。こういう人たちは「原発推進」を選択する。

 ムラを二分する争いが深化すると、それぞれむき出しの憎悪をぶっつけ合うようになる。

 「オマエたちは金持ちだから、原発なんか要らないんだよナ」
「だからって、貧乏人が正しいってわけでもないだろ」
という具合だ。

 こんな怒鳴り合いが出現すること自体、地域社会崩壊だと言える。私自身、北海道の過疎のムラ(その後合併で消えてしまった)出身だから、それがいかに大きな悲劇か、よく分かった。

 私が取材した久美浜・窪川の両町は、ともに原発を拒否した。しかしその経過で、地域社会崩壊といえるほどの悲劇を経験したはずだ。

 朝日社説・東京記事がともに触れている旧新潟県巻町のケースは、こうしたケースではなかった。その時点ですでに都市化が進んでいて、推進派が多数になり得ない地域となっていただけなのだ。

 国民投票を避け、「住民投票で良い」という論理は不可解でしかない。実態は「厳しい選択」を、過疎のムラの住民に押しつけているだけだ。

 国民投票なら、住民投票のような「悲劇」はない。朝日は「反原発」を、読売は「原発推進」をそれぞれ選択するなら、一部の読者を失うかもしれない。しかしその選択によって増える読者もいるはずだ。自らの「厳しい選択」は避けて、過疎のムラに押しつけようという姿勢は、いただけない。

フリージャーナリスト 田中良太 氏
田中良太 氏
(たなか りょうた)

田中良太(たなか りょうた)氏のプロフィール
北海道穂別村(その後穂別町、現在むかわ町)生まれ。穂別村立穂別高校卒(現北海道穂別高校)。1965年東京大学文学部卒(社会学専攻)、毎日新聞社入社。奈良支局、大阪社会部、京都支局、特別報道部(東京)、政治部などを経て85年政治部官邸キャップ、86年同副部長。89年編集局編集委員、92年学芸部長、94年編集委員室長、95年論説委員兼務となり、毎週月曜夕刊のコラム「直視曲語」執筆。96年毎日新聞退社、フリー・ジャーナリストに。96年4-9月東京情報大非常勤講師、96-99年東京経済大学非常勤講師。著書に「共通一次と入試歴社会」(大蔵財政研究会)、「21世紀の教育よ こんにちは」(訳書、学陽書房)、「ワープロが社会を変える」(中公新書)、「『政治家総とっかえ』と業界政治」(同時代社)、「私の脳卒中体験-自己流リハビリは楽しかった」(同時代社)、「中枢腐敗-戦後50年・超大国ニッポンの病理」(花伝社)、「直視曲語・オウムから住専まで」(三省堂)、「日本の選挙はなぜ死んだか」(小学館文庫)、「謎解き経済崩壊-国債買い切りオペを告発する」(花伝社)。メルマガ「田中良太の目覚まし時計」を毎日配信。
E-mail:gebata@nifty.com

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