上野原市の中央道をまたぐ新栗原橋を渡りながら眺めると、左手の山並みの奥に雪を少しかぶったような山が顔をのぞかせていた。「富士山だ」と教えられる。この距離、角度から眺めることがなかったせいだろう。山頂が横に長すぎるようで、言われなければ気がつかなかった。
通信社時代の仲間で楽しむ甲州街道を歩く会は、JR中央本線上野原駅に集合、中央道とつかず離れずしながら中央道談合坂サービスエリアまでというコースだった。毎回のように天気に恵まれ、この日も快晴、途中で上着やセーターを脱ぐ人間が相次ぐ。晴れで気温もそこそこだとこの季節がもっとも歩きやすいかも、と感じる。空気が澄んでいるので近くの山も遠くの山もよく見えるのもまた心地よい。この日歩いたあたりは甲斐と関東の境界で昔から軍事的要所だったことを、途中の表示で知る。
中央道をまたぐ新栗原橋というのを渡ったところが野田尻宿だ。道の両側に立派な家屋が並んでいる。屋根の作りなどから、かつては養蚕が盛んだったことが伺えた。「騎兵隊がやってきて、あの山を駆け上がる訓練をやった」。一軒の家の前に立っていた年配の男性の言葉に「いつの話だろうか」と首をかしげる。しかし、先方は耳が遠いらしく、話がかみ合わない。答えはあきらめた。
帰りは、中央道談合坂サービスエリアから高速バスを利用する。バスを待つ間に、目の前に連なる山並みを眺める。騎兵隊が駆け上がった、と教えられた山だ。中腹に家屋が寄り集まっている場所が散在している。われわれが歩いてきた野田尻宿の「中心地」から見ると結構高い位置にも家がある。「ここで暮らすのは大変そうだ」「ここの人たちには悪いけど、住む気にはなれないね」。編集者より年配の人が半数くらい、というグループだ。つい、同じような感想が口をつく。買い物一つとっても、老人には重労働に違いない。
1時間ほどで新宿に着き、2時間飲み放題○千円という居酒屋での打ち上げとなる。いつもながらこれが実に楽しい。たまたま隣は編集者より一回り年齢が上の大先輩(元経済記者)だった。大体、この世代の先輩は、教養豊かな方が多い。取材相手にもまた教養人が今より多かったからか、あるいは記者活動も今のように細分化していなかったからだろうか。人脈もまた豊富だから、話が面白くないわけはない。
日本の新聞の総発行部数は現在、5,000万部を超えているそうだ。これが10年後だったかには3,000万部に減りそうという予測がある、という話にやはり考える。情報の流れや広がり方の変化は、新聞に慣れきった人間が考えているよりはるかに速い、ということだろうか。編集者だけでなく話し足りず2次会に参加した人間が9人いた。
ところで、野田尻宿で見た案内板に「正徳3年(1713年)集落起立の形態で宿を構成…小宿であった」と書かれていた。集落起立というのはどういう意味なのだろう。