産経新聞朝刊の1面に曽野綾子さんのコラムが載っていたのが目を引いた。
「41人の学生に新聞を取っているかどうか聞いたところ、取っている人はたった4人、アメリカと戦ったことを知っている人は約半分の21人しかなかった」という聖心女子大学の先生の発言が最初に紹介されていた。ある雑誌に載っていた別の人の文章からの引用だ。
曽野さんも聖心女子大学の卒業生だから、余計に関心を持ったと思われる。この導入部を読んで後の展開を予想した。「そんなことに驚いているのは遅い。そもそも新聞に大きな責任があるのではないか。読者が何を読みたいかに気を遣わず、自分が伝えたいと思うことを最優先してきていなかったかどうか、考えた方がよい」。そんな辛口の記述が続くのではないか、と。
ところがこの見当は全くはずれてしまった。「知識階級といわれている人たちの中に、新聞を読まない家庭がある、ということは、私にとっては驚きだった」というのだ。さらに「私の周囲には、新聞を取っていない人はまれだが、話しているとすぐ分かる時がある。話題がゴシップの域を出なくなる。…私が社長だったら新聞を読まない社員は採用しない。若者だったら結婚相手として困る」と続いていた。
このくだりで昔読んだ小説を思い出す。ジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」の続編「ロスノフスキ家の娘」だったと思う。男の方の主人公が、夫に先立たれた母親がいかがわしい男にだまされて再婚しかねない状態になって悩むくだりがあった。このいかさま師が、たしか文字(もちろん母国語である英語)が読めない男だった。明治時代ならともかく、日本に新聞が読めない大人などよほど特別な事情でもない限り、いないだろう。米国というのは日本とはだいぶ違うのか、と思ったものだ。
曽野さんの記事を読んで、当時とはちょっと考えが違ってきている自分に気づく。曽野さんの意見に同感するのに加えて、そのうち日本でも「ロスノフスキ家の娘」に出てくるような人間が出てこないだろうか、と心配になった。いい年の裕福な女性を籠絡(ろうらく)してしまうような外見、振る舞いをしていながら、実は文字が読めない、というような。
「話題がゴシップの域を出ていない」。新聞を購読していない人に対する曽野さんの見分け方と、編集者とはちょっと違う。「冗談がなかなか通じない」。これが編集者の見分け術だ。間違うことも多いだろうが、間違っても別に困ることもないし、相手に迷惑を掛けるわけでもないので、それで通している。