「脳に刺激を与えることで、記憶力は良くなるだろうか」「その安全性に問題はないのか」。人の命に直接関わるこのテーマは多くの人の関心を呼び、第5回情報ひろばサイエンスカフェの「脳×刺激〜記憶を増強する技術〜」には多くの申し込みが殺到した。
2020年1月17日の金曜日、文部科学省が主催し、科学技術振興機構(JST)が共催する、第5回情報ひろばサイエンスカフェが文部科学省(東京都千代田区霞が関)の「情報広場ラウンジ」で開催された。11月にお台場で行われたサイエンスアゴラ2019の「人間らしさって、何?」との連携企画だ。今回のテーマは幅広い層に関心を集め、当日は2人の中学生を含め、学生、研究者、会社員、その他、立場も関心も異なる多彩な人たちが一堂に会した。
今回の講師は、東京大学大学院教育学研究科の特任研究員でJSTさきがけ専任研究者でもある武見充晃さん。ファシリテーターはかつて武見さんと同じ研究室の同期だった、日本科学未来館の科学コミュニケーター松谷良佑さんだ。2人は参加者と常に対話しながら、あうんの呼吸で会を進行していく。休憩時間には、実際に「脳刺激」がどれくらいの強さなのか体験してもらうコーナーも開催し、行列ができた。
人の記憶は脳の状態に依存する
武見さんによると、人間は記憶が形成された時と環境が近いほど、思い出しやすいという。1975年に実施された実験を例に説明してくれた。
「水中で覚えた単語と陸上で覚えた単語、水中では水中で学習した単語の方が思い出しやすいんです。この記憶の性質をうまく使えば、例えば英単語を図書館とカフェ、同じ場所で2回覚えた場合と、それぞれの場所で1回ずつ覚えた場合では、後者の方がよく思い出せると考えられます」
では本当に記憶は環境に依存するのだろうか。最新の研究によると、記憶は環境ではなく、脳の状態に依存することが示されている。それならば、脳を直接刺激することで、より忘れにくい強い記憶が作れるのではないか。武見さんはそのように考え、今まさに脳刺激で運動技能の学習効果を向上させる研究に取り組んでいるとのことだった。
脳刺激を使いたい?使いたくない?
ここで松谷さんが、「今の話を聞いて、脳刺激を使ってみたい!という人はどれくらいいますか」と尋ねると、約8割の人が挙手した。さすがに自ら関心を持って参加した人たちの集まりならではのこと。通常だと使ってみたいと答える人は2割くらいだという。
では、使いたくない人に理由を聞いてみると、「脳刺激のやり方がわからないと怖い。電気ショックのイメージがある」「頭の中は究極のプライバシーで尊厳のあるもの。外部から操作されることは許せない」などの答えが出た。
確かに指摘された理由は、多くの人の気持ちを代弁するものだろう。松谷さんは脳刺激を使うことに抵抗を感じる4つの理由を挙げ、カフェの参加者に気になる項目(複数回答可)を聞いた。
(1)本当に効果があるのか不明 3人
(2)安全性に不安(痛みや副作用が怖い) 多数
(3)プライバシーの問題 7人
(4)生命倫理の問題 5人
脳刺激に抵抗を感じる4つの理由
武見さんは(1)から(4)について丁寧に回答した。まず(1)の脳刺激の効果については、脳刺激のパターンにより学習した運動技能を忘れにくくなるという武見さんご自身の実験結果や、米国ボストン大学の研究者による脳刺激により高齢者のワーキングメモリーが改善したという研究成果について説明した。
ここで会場から、「副作用はないんですか」と質問。参加者の約8割が脳刺激を使ってみたいと答えている一方で、(2)の安全性についてはいろいろな不安がよぎるようだ。武見さんは、まだこの技術は新しいので副作用の検証は進んでいないと説明した上で、何かをより覚えさせることで、何かが覚えにくくなる可能性はあり得るだろうと回答した。また、安全性については正しく使えばリスクは低いと言われているので、おそらく今後10年ほどで一般に普及するとともに、副作用についても明らかになるのではないかと続けた。
(3)のプライバシーの問題について、武見さんはナショナルジオグラフィック日本版の記事を例に取り、わかりやすく問題提起してくれた。「遠くない未来に、私たちは人間の記憶を書き換えられるようになるだろう。軍がPTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)に苦しむ退役軍人にこの技術を用いるとしたら、戦場に戻る兵士の記憶を書き換えることは許されるべきだろうか」(記事より引用)
続く「記憶の操作が許容される最低限のルールとは何か」という武見さんの発言に、多くの参加者がうなずいていた。
また(4)の生命倫理・モラルに関わる課題の一例が、「脳ドーピング」だという。スキージャンパーに脳刺激を与えたら、刺激を受けずにトレーニングを受けた選手と比べて、1.7倍もジャンプ力が伸びたという実験結果が報告されている。では、脳ドーピングをしたか否かはどのように見つけるのか。そもそもドーピングの定義とは何なのか。低酸素室や高気圧カプセルの使用が認められている現状を鑑みれば、何をもって禁止すべき技術とするのか、答えの出ていない課題がたくさんある。
参加者からは他にも多くの質問が寄せられた。例えば、認知症の人に脳刺激を与えて治せないだろうかという質問には、現在、一定周波数の光や音の刺激を与えると認知機能に効果があることは判明しているので、同様に脳を刺激すると効果はあるだろうと武見さんは回答。また子どもにも脳刺激は使えるのかとの質問には、成長過程における影響について未知な部分が多いので、脳刺激の使用を推奨しないという専門学会による提言があることを紹介した。
この後、休憩時間には実際に脳刺激を体感したい人が集中。そこで今回は、直接脳に刺激を与えるのではなく、腕に同程度の電気刺激を流し、その強さを体感してもらった。チクチクするという人、あまり感じないという人、体感は個人差が大きいようだ。
失われた機能の回復に脳刺激を使いたい
次に、4人ずつに分かれてのグループワーク。そのテーマは(1)脳刺激はどんな使い方ができると思うか、(2)脳刺激が普及するとどんな問題が生まれそうか、だった。各グループからは「脳卒中や認知症など、本来持っていた機能が低下した場合に回復させるとか、本来の機能を維持する場合に使うのはいいのではないか」「病気治療で医療従事者が使うのが望ましい」「不快の緩和なら許されるのでは」というコメントが数多く出された。また、能力増強については「受験やスポーツ、忘れていることを思い出す時に役立つかもしれない」「英単語など、同じ時間でより多くのことが学べるといい」という肯定的な声がある一方、「能力増強のために脳刺激を使うのはどうか」「そもそも脳刺激を使ってまで能力を上げる必要があるのか」というためらいの声もあった。
ブラックボックスのまま使うのは不安
脳刺激の使用をためらう理由としては、「脳刺激は筋刺激と違い効果が目に見えない、全体がブラックボックスのまま適用するのは不安」「脳の一部が刺激されると全体のバランスが崩れるのではないか」「ピリピリするのには抵抗がある」という点への指摘が多かった。
他にも「人の記憶が操作できて他人の記憶を移植したりすると、それまでの自分はどこに行くのか。自己が確立できないのではないか」「PTSDでつらい記憶を忘れさせることに効果があっても、そのつらい経験も含めて個性ではないのか」との意見もあり、武見さんも「個性と病気の切り分けは、難しい問題だ」と共感した。脳刺激のデバイスは比較的簡単に作れることもあり、「法律が整っていないのに技術だけが発達することに危うさを感じる」「法や制度の整備が必要では」という提言も出された。
参加者からの多くのコメントを受けて、最後に武見さんは次のように感想を述べた。「皆さんに共通して、衰えた機能を整える場合の回復目的や維持目的に対しては心理的なハードルが低いけれど、何かを高める・増強するという面では、まだまだ考える必要があることがわかりました。また、脳がブラックボックスのまま突き進んで良いのか、原理がわからないと利用するには不安があるというのも確かにそうだなとよくわかり、大きな気づきでした。法律面については、レギュレーションが必要な反面、レギュレーションが厳しくなり過ぎると技術開発がしづらくなる面もあると、研究者としては思います。だからこそ、このような対話の場が必要だと感じています」
今回のサイエンスカフェでは個別の質問も尽きることがなく、閉会後も武見さん、松谷さんへの質問が続き、脳刺激をそれぞれの人が「自分事」としてとらえていることがよくわかった。脳刺激について、不安の大きさは期待の大きさの裏返しでもある。今日の議論が今後の研究に生かされることを期待したい。
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