レポート

シリーズ「日本の安全と科学技術」ー 「新幹線の地震対策」第2回「地震対策の3方針」

2011.09.28

宮下直人 氏 / 東日本旅客鉄道 常務取締役 鉄道事業本部 副本部長

鉄道と地震の歴史

宮下直人 氏 東日本旅客鉄道 常務取締役 鉄道事業本部 副本部長
宮下直人 氏(東日本旅客鉄道 常務取締役 鉄道事業本部 副本部長)

 地震の話に入ります。鉄道には、地震による大きなダメージが、1995年1月の阪神淡路大震災まではあまりありませんでした。関東大震災(1923年9月1日、M7.8)がそれまでの一番大きな被害でした。関東大震災の当時、東海道本線は今の御殿場線を回っていました。写真は御殿場線あたりの被害状況です。東京から向かって平塚駅の手前、馬入川(相模川)の鉄橋もひどい状況です。また、この根府川駅付近では大規模な地滑り、土砂崩壊があって、列車がホームごと海まで押し流されました。お客様も百数名が亡くなり、当時の機関車は今でも近くの海岸の50メートル先に沈んでいます。

 それから、これは新潟地震(1964年6月16日、M7.5)です。起こったときはたまたまほとんどの列車が駅に止まっていたタイミングでした。唯一の被害は、新潟駅で入れ換えをやっていたディーゼルカーが、上の橋が落ちてきてつぶされたという例で、けが人などはありませんでした。これは十勝沖地震(1968年5月16日、M7.9)の被害で、ローカル線の貨物列車が脱線しました。

 そして阪神淡路大震災(1995年1月17日)。皆さんも覚えていらっしゃると思いますが、これは相当ひどい被害でした。ただ、地震の発生が午前5時45分ということで、電車がたくさん走り出す前だったので、大きな被害にはなりませんでした。それでも、山陽本線では客車が脱線しています。阪神間では高架橋が落ち、特に山陽新幹線でも高架橋がこういう形で落ちましたので、これがある意味で、私どもの耐震補強の議論のきっかけになりました。

 この大震災を受けて、社内に「震災対策プロジェクトチーム」を置きました。震災対策における、安全確保のための、幾つかの考え方をまとめました。

 1つは、高架橋などの構造物に大きな被害が起きないようにすることです。それから、地震発生時にいち早く列車を止めること。さらに、安全が確保されるまでは運転再開をしないことです。特に運転の再開については、今回の東日本大震災で首都圏でもありましたが、「安全を確認するまで列車を動かすな」ということです。地震だと地盤が緩んでレールも曲がり、脱線につながる恐れがあります。構造物についても、損傷があると列車の重みがかかり、そのまま落ちてしまうことがあるので、点検をしっかりしないと運転再開ができないと決めています。そして何よりも、お客様などの救助、救命活動を第一とすること、これは当たり前のことです。

新潟県中越地震

 2004年10月23日午後5時56分に新潟県中越地震(M6.8)が起こりました。この写真は、脱線した上越新幹線「とき325号」の最後部の車両で、これだけ傾いています。時速200キロで脱線しましたが、幸い、乗客・乗務員ら計154人に死傷者はゼロという奇跡的な事故でした。この脱線事故が、新幹線あるいは鉄道の耐震性能をどう引き上げていくかといった非常に大きな議論、対策のきっかけになりました。

 この地震の規模はマグニチュード6.8と、そんなに大きくはありませんでした。関東大震災はM7.8ですから、その30分の1の大きさです。最大加速度は、上越新幹線の関連施設では新川口変電所で846ガルを記録したのが最大です。

生きた阪神淡路大震災での教訓

 「とき325号」の脱線状況については、10両編成のうち8両、軸数では全40軸中22軸が脱線しました。とくに最後尾車両(1号車)は線路脇の排水溝に落ち、車体が30度ほど傾いてしまいました。どのような走行状態だったのか。「とき325号」は地震発生時に、浦佐−長岡間を時速200キロで走行中でした。トンネルから出たところで地震の激しい上下動を受けました。ここで脱線し、緊急ブレーキをかけながら1.6キロ走って止りました。普通なら、止まるまで3-4キロ走りますが、脱線して抵抗が大きくなったので1.6キロで止まったという状況です。

「とき325号」の脱線状況

 この際、「とき325号」がトンネルを出て間もなく最初の強い揺れを受けた地点の直下の高架橋(十日町高架橋)の柱20本が、鋼板巻きにより耐震補強されていたことも幸いしました。付近では、液状化現象でマンホールが浮き上がるなど、震源地にも近く、震度6の相当強い揺れでした。

 この補強は、1995年の阪神淡路大震災で応援に行き、被害にあった高架橋柱を見た弊社の技術者が「うちにも同じような柱があるぞ」と耐震補強の必要性を実感したわけですが、当時はまだ民営化して10年足らずで、設備投資を減価償却の範囲内で行うという厳しい時代でした。それでも、管内3カ所だけ、高架橋をそれぞれ20本ずつの柱の耐震補強をやらせてもらえることになりました。この時の十日町高架橋がまさにその1カ所でした。他は熊谷(埼玉県)と蔵王(宮城県)の2カ所でした。なぜここだったのか、実はここに巨大な活断層が通っているからです。

 阪神淡路大震災のときのように落ちていたら、と思うと背筋が凍りますが、耐震補強がしてあったので、無事「とき325号」は走り抜けることができたと思っております。

「とき325号」の脱線のメカニズム

 「とき325号」がどういうメカニズムで脱線したのか、国の航空・鉄道事故調査委員会(現、運輸安全委員会)も入りましたが、私どもも「上越新幹線脱線調査専門委員会」を設けて分析いたしました。結論として、「ロッキング脱線」と推定されました。

 揺れ方がロッキングチェアに似ているので「ロッキング脱線」というネーミングです。その仕組みは - 地震の発生時には地震動でレールが移動し、車両も揺れて傾きます。車輪の内側には「フランジ」という脱輪防止のための“つば”があるのですが、車両が傾くとこのフランジがレールから浮いた状態となります。そのまま次の逆向きの地震動が来ると、フランジが戻らないうちにレールが動くことになり、車輪が揺り落とされ、脱線してしまうのです。これをJR総研が実際に新幹線の台車を使い、本物に近い状態で再現実験をして証明しました。

 脱線はそうした仕組みで起こり、先頭車両の先頭軸が最初に脱線しました。その最初の脱線が次々と、レールを倒していくことに結びついてしまいました。どういうことかというと、レールをバネで止めている締結装置を車輪が次々と踏みつぶしていったために、「スラブ」というコンクリートの板に止めていたレールが全部はずれ、パタッと倒れてしまったのです。そのため、後ろの車両はレールから落ちた状態のまま走ることになり、脱線する車両が増えました。さらにレールをつないでいる「継ぎ目板」についても、止めていたボルトの出っ張りに車輪が次々とぶつかって、飛んでしまい、継ぎ目板も取れてしまいました。その結果、レール間隔が広がって倒れ、そこに後ろの車両が落ちて、さらに脱線が広がったと推測されます。

 しかし、この時は高速で脱線したのにもかかわらず、車両は高架橋下に落ちませんでした。なぜかというと、脱輪後に、車軸を支えている台車部品と車輪とが、左右のレールそれぞれをうまく挟み込んだからです。先頭車両ではさらに「スノープラウ」という雪よけの部品がレールをかんで、要するに“ガイド”の役割となって、結局はソフトランディングができました。「脱線したが大きく逸脱せず、転覆もしなかった」という経験とそれをもたらした構造が、新たな対策のヒントになりました。

 この中越地震では、魚沼トンネルや妙見トンネルでの内壁の一部が崩壊する被害がありました。鉄板を巻くなどの補強をしていなかった高架橋では柱に亀裂が入り、川にかかる橋梁でも太い丸い橋脚にクラックが入ったりしました。

上越新幹線構造物の被害状況

決まった3つの方針

 こうした経験を経て、新幹線や在来線の地震対策として3つの方針が決まりました。1つは壊れないように、構造物の耐震補強をしっかりやること。まさに「とき325号」が地震発生時に走行していた高架橋が耐震補強されており、被害を免れたことの教訓です。2つ目が、列車の緊急停止の仕組みづくりです。これは「地震を早く検知して止めよう」という世界で例のない技術ですが、それをリファイン(refine:改良)していこうということです。3つ目が、万が一、列車が脱線しても、逸脱させないことです。中越地震で得られた知見をヒントに、列車を逸脱させない工夫はないものか、勉強していくことにしたのです。

宮下直人 氏 東日本旅客鉄道 常務取締役 鉄道事業本部 副本部長
宮下直人 氏
(みやした なおと)

宮下直人(みやした なおと) 氏のプロフィール
東京都生まれ、東京都立西高校卒。1977年東京大学工学部卒、79年日本国有鉄道入社、96年東日本旅客鉄道(株)新潟支社運輸部長、2006年鉄道事業本部運輸車両部担当部長、08年執行役員鉄道事業本部安全対策部長、10年から現職。

関連記事

ページトップへ