はじめに〜パリ協定は世界が化石燃料依存文明からの脱却目指した
米国のトランプ大統領は去る6月1日、気候変動に関するパリ協定から離脱する演説を行った。本稿ではその演説の意味や影響を改めて考えてみる。
パリ協定は気候変動抑止への世界を挙げての取り組みを目指し、温室効果ガスの排出抑制など2020年以降の各国の取り組みを決めた国際的ルールである。2015年12月に採択され、16年11月4日に発効した。現在147カ国・地域が締結している。この協定では世界全体として、(1)産業革命前からの地球の気温上昇を2℃より十分低く保ち、1.5℃以下に抑える努力をすること、(2)そのために、温室効果ガス排出量を速やかにピークに達して減り始めるようにし、21世紀の後半には世界の温室効果ガス排出を実質ゼロにするーという大きな目標を定めている。
この目標を達成するために、協定は各国に対して「自主的な削減目標を国連に提出すること」と、「目標達成のために、削減に向けた国内の対策を取ること」を義務付けている。世界が化石燃料に依存した文明から脱却し、脱炭素で持続可能な経済社会への移行を促す歴史的合意と評価されている。
トランプ大統領演説とその内容の検証〜根拠レポートの信頼性に疑問
トランプ大統領は6月1日の演説で、パリ協定は米国の産業と雇用を痛めつける不公平なものだと批判し、「米国と市民を守るという重大な義務を果たすため」にパリ協定を離脱すると表明した。大統領選挙での米国の石炭・石油産業を助けるとの公約を果たすための措置だとしている。一方で、「米国の企業や労働者、人々、納税者にとって公平な条件に基づくパリ協定か、全く新しい協定に再加入するための交渉を開始する。それが公平なものかどうか見てみよう。公平になれば、素晴らしい。公平な結果が得られなければ、それはそれでよい」と語り、「再交渉」や「再加入」に含みを持たせた。
この演説に対し、直ちにフランス、ドイツ、イタリア各国の首脳は共同声明で、パリ協定の再交渉を拒否している。「2015年12月にパリで作られた動きと勢いは不可逆のもので、パリ協定は再交渉できないと我々は固く信じている。協定は、この惑星と各国社会と経済にとって、不可欠な道具だ」と反発した。また国連気候変動枠組条約事務局もアメリカの意向によるパリ協定の再交渉はありえないと言明している。
トランプ大統領は「パリ協定で約束した温室効果ガス削減目標を実施に移せば、米国は大きな犠牲を強いられる」、「2025年までに270万人の雇用が失われ、2040年までにGDP(国内総生産)3兆ドル、650万人の雇用が失われる」と語った。これは「National Economic Research Associates(NERA)」という民間のマーケティング会社の調査によるものだが、気候変動対策による経済的な便益を無視した信頼性の低い偏ったレポートである(注1)。米国の石炭産業が衰退し雇用が減ったのは、石炭採掘技術の高度化により人手が要らなくなったことと、天然ガスや再生可能エネルギーに対するコスト面の優位性を失ったことが原因であり、市場経済メカニズムの必然の結果である。
ところで注目すべきは、トランプ大統領は、今回の演説の中では「温暖化の科学」自体を明確に否定する発言は行っていないことである。大統領選挙中には、「気候変動問題は中国がアメリカ産業を弱体化させるために主張しているでっち上げである」と公然と主張していたにもかかわらず、である。そして米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究結果(注2)を引用し、パリ協定による気温抑制の効果はたかだか2100年時点で0.2℃とし、ごくわずかな効果しかないと批判している。ただしこの批判は正当ではない。MITの研究者は、トランプ大統領は研究結果を間違って引用しているとし、「私たちはパリ協定からの離脱を支持できない。研究結果では、何の削減努力もしなければ温度は5度以上上昇することになる」と批判している(注3)。MITの研究結果では、各国がパリ協定の約束を遵守すると、2100年までに0.6-1.1℃気温上昇を抑制できるとしている。またパリ協定では5年毎に各国の約束を見直し、より高い目標を設定することを促す仕組みをとっているのである。
パリ協定離脱の理由として、大統領がスピーチの中で強調したのは、パリ協定が米国にとって不公平だということだった。確かに協定では、米国、日本、欧州連合(EU)などの先進国、地域は温室効果ガスの削減目標を絶対値で示し、中国、インドなどの途上国は、目標を単位国内総生産(GDP)当たりの排出量に置いている。今後もこれらの国で高度経済成長が続くと、排出総量は増加する可能性がある。しかし気候変動枠組条約の下では、各国の公平性の基準として、「共通だが差異のある責任と能力に基づく取り組み」の考え方が広く受け入れられている。また、温室効果ガスの一人当たり排出量も歴史的累積排出量も、依然としてアメリカが際立って高い。そして、中国やインドもそれぞれ再生可能エネルギーの拡大や石炭消費の抑制などかなり野心的目標と対策を実施しようとしている。こうしたことを考慮すると、パリ協定が米国にとって不公平だという指摘は当たらない。
トランプ大統領はさらに、先進国による途上国の温暖化対策への援助資金、とりわけ「緑の気候基金」への拠出を問題とした。先進国は一部の途上国と共に官民協力の下、緑の気候基金に資金拠出を行うことを約束している。既に、43カ国、103億ドルの資金拠出が約束されており、オバマ大統領の時代に約束された米国の負担額30億ドルの資金拠出のうち、10億ドルは拠出された。今後拠出は停止されることになる。ちなみに、日本は米国に次ぐ15億ドルの資金拠出を約束している。
米国の緑の気候基金への拠出打ち切りは確かに影響が大きい。他の先進国の負担増や中国など途上国自身による資金拠出や一層の民間資金の活用が必要となろう。ただし気候変動の緩和や適応に投資することは、新たな産業や雇用の創出にもつながる未来への投資である。環境ボンド(グリーンボンド)など世界の余剰資金を環境対策に誘導する仕組みが重要となる。
トランプ演説に世界はどう反応したか〜米国内では協定の実現目指す取り組み続く
以上述べてきたように、トランプ大統領の演説は、疑わしいデータと恣意的で誤った事実認識に基づき、気候変動対策にも米国経済の発展にも逆行する内容となっている。しかし、米国政府がパリ協定から脱退しても、化石燃料依存文明からの脱却の流れは止められない。既に米国の多くの州・地方政府、主要な産業界のリーダー、市民社会はパリ協定の実現に向けた取り組みを強化することを表明している。
例えば6月5日には、米国の9州や125都市などが共同で連邦政府に代わって米国の温室効果ガス削減の責任を果たすとする声明を国連に提出した。前向きな州の国内総生産(GDP)は全米の3割を超えている。また、ブルームバーグ・前ニューヨーク市長の呼びかけで広まった「We Are Still In(私たちはまだパリ協定にいる)」と題した声明には、ニューヨークやカリフォルニアなどの9州や全米125都市に加え、902の企業・投資家、183の大学が署名している。企業では、アップル、グーグル、ナイキなどが名を連ねた。この取り組みとは別に、共和党系を含む13州の知事や200以上の市長、500以上の企業家らが再生可能エネルギー導入などに力を入れることで合意し、米国の離脱で生じる温室効果ガス削減量の穴を埋めるため、連邦政府が国連に提出する国家目標に代わる「社会の削減目標」を取りまとめ、国連に報告書を示すという(注4)。
全米最大の経済規模を誇るカリフォルニアでは、既に2030年に電力の50%を自然エネルギーで供給する目標を定めており、さらに2045年までに自然エネルギー100%を目標とする法案が州議会で議論されている(注5)。ハワイ州では6月7日、「パリ協定」に掲げられた温室効果ガスの排出削減目標を州政府として独自に維持する法案にイゲ知事が署名した。協定の遵守を法制化したのはハワイ州が初めてである(注6)。
世界の反応はどうか。すでにEU加盟国、カナダ、中国、インドその他の途上国はこぞってトランプ大統領の決定を非難し、米国抜きでパリ協定の実施を進める決意を固めている。国連報道官も「温室効果ガス削減と世界の安全保障促進のための世界的取り組みにとって、大きな落胆だ」と述べている。トランプ大統領のパリ協定からの離脱演説は、米国の孤立を招き、米国が果たしてきたモラル・リーダーとしての信頼も失墜させることになるであろう。
おわりに:日本はどうすべきか〜「炭素排出への価格付け」核に社会構造全体を新しく作り直すイノベーションの導入が必要
仮に米国がパリ協定から離脱しても、手続き上、正式に離脱が認められるのは早くても発効から4年後の2020年11月となる。その時には新しい大統領が誕生しているかもしれず、もし(環境保護を推進する)民主党の大統領なら離脱を取り消すこともできる。その間パリ協定からの離脱を表明した米国が、これからルールづくりが本格化するパリ協定の議論で影響力を発揮するのは難しいだろう。
一方、世界はパリ協定の目標実現に向け「脱炭素経済への移行競争」にまい進しようとしている。脱化石燃料依存文明への移行は止めることができないのである。日本は、トランプ演説にもかかわらず、世界各国、そして米国の心ある市民や産業界、そして地方公共団体などとも連携し、脱炭素で持続可能な経済社会の構築に向け、より積極的な取り組みを一層強化することが必要である。それがより豊かで安定的な経済、社会、環境の構築につながる。
国内対策につき、今後、米国政府の決定を口実に、対策を緩める、あるいは様子を見るとの主張が出てくるかもしれない。しかし、脱炭素経済への流れは必然であり、同時に巨大なビジネス・チャンスでもある。パリ協定が求める温室効果ガスの大幅削減と、日本が直面する少子高齢化、人口減少、地方の衰退などの経済・社会的課題の同時解決に向けた取り組みが求められる。
現在わが国政府では、「低炭素長期発展戦略」を策定中である。この中では、技術開発・普及に加え、社会システム、ライフスタイルを含めた社会構造全体を新しく作り直すような社会構造のイノベーションの導入が必要である。その核となるのが「カーボンプライシング」(炭素排出への価格付け)である。具体的には法人税減税・社会保障改革と一体となった大幅な炭素税の導入を行い、環境価値を顕在化させて炭素生産性を向上させ、経済全体の高付加価値化を誘発することが望まれる。また、再生可能エネルギーなどの地域に賦存する「自然資本」の活用を通じて、「エネルギー収支」の黒字化を図り、地方の再生を後押しする。さらには日本発の「環境ブランド」を国際的に発信することが、ソフトパワーを通じて世界の尊敬を得ることとなる。(これらの論点については後日より詳しく論じたい)
(注)
- https://gqjapan.jp/culture/column/20170607/trump-retreat-from-paris-agreement/page/2
- https://globalchange.mit.edu/news-media/jp-news-outreach/how-much-difference-will-paris-agreement-make
- https://www.reuters.com/article/us-usa-climatechange-trump-mit-idUSKBN18S6L0
- https://www.asahi.com/
articles/ASK6652L2K66UHBI01Z.html - https://rief-jp.org/ct4/68077
- http://www.jiji.com/jc/article?k=2017060800551&g=use
松下和夫(まつした かずお) 氏のプロフィール
京都大学名誉教授、(公財)地球環境戦略研究機関(IGES)シニアフェロー、国際協力機構(JICA)環境ガイドライン異議申立て審査役。1972年に環境庁入庁後、大気規制課長、環境保全対策課長等を歴任。OECD環境局、国連地球サミット(UNCED)事務局(上級環境計画官)勤務。2001年から13年まで京都大学大学院地球環境学堂教授(地球環境政策論)。環境行政、特に地球環境・国際協力に長く関わり、国連気候変動枠組み条約や京都議定書の交渉に参画。持続可能な発展論、環境ガバナンス論、気候変動政策・生物多様性政策・地域環境政策などを研究。主要著書に、「自分が変わった方がお得という考え方」(2015年)、「地球環境学への旅」(2011年)、「環境政策学のすすめ」(07年)、「環境ガバナンス論」(07年)、「環境ガバナンス」(市民、企業、自治体、政府の役割)(02年)、「環境政治入門」(2000年)、監訳にロバート・ワトソン「環境と開発への提言」(15年)、レスター・R・ブラウン「地球白書」など。
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