はじめに
国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)で採択されたパリ協定は世界がゼロ炭素社会に向かうための長期目標と枠組みを定めたものである。その意味で2016年はゼロ炭素社会元年である。COP21の合意(国際条約であるパリ協定と、法的拘束力のないCOP21決定の二つ)は多くの人から「歴史的合意」として高く評価されている。
気候変動国際交渉の歴史を振り返ると、1992年の国連気候変動枠組み条約や97年京都議定書の採択は時代を画す国際合意であった。これらの歴史的合意に達するたびに私たちは気候変動対策の進展と持続可能な社会への移行を大いに期待したが、残念ながら期待通りには進まなかったのがこれまでの歴史である。果たして18年ぶりのパリ協定は新たな歴史のページを開くことになるだろうか。筆者は昨年12月、COP21関連会合出席のためパリに滞在した。新たな年を迎え、パリでの所感にその後の論評も加味してCOP21の歴史的合意の意味を考えてみたい。
COP21の成果
COP21 はパリ郊外のル・ブルジュで2015年11月30日から12月13日まで開催された。国連史上でも最大となる世界の150か国の首脳が初日に集まり、3万人以上が参加したこの会議は、参加者の規模でもレベルでも歴史的であった。
パリ協定は地球全体での野心的な長期目標を明らかにして化石燃料からの脱却への明確なメッセージを出した。また、先進国に率先的行動を求めながらもすべての途上国の参加も包括する枠組みを構築した。さらには継続的なレビューと5年ごとの対策強化のサイクルを定めている。各国には自主的に定めた国別目標の提出と目標達成の国内措置の追求などが義務付けられている。しかし、その実施や目標達成には法的義務はない。プロセスは詳細に定められたが、国別の目標とその達成は各国の自主性に委ねられている。
野心的な長期目標
パリ協定で評価されているのは、長期的で野心的な目標を明記したことだ。その第1は、パリ協定全体の目的として、世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して「2℃よりも十分に低く」(2℃目標)抑え、さらに気候変動に脆弱(ぜいじゃく)な国々への配慮などから、「1.5℃に抑えるための努力を追求する」(1.5℃目標)ことにも言及した点だ。これは会議前の想定よりも強い表現となっている。その背景には小島しょ国連合やアフリカ諸国・欧州連合(EU)が主導し、米国やブラジルも加わった「野心連合」の働きかけがあったといわれている。
第2の長期目標として、今世紀後半に、世界全体の温室効果ガス排出量を、生態系が吸収できる範囲に収めるという目標が掲げられた。これは人間活動による温室効果ガスの排出量を実質的にゼロにする目標である。さらに、継続的・段階的に国別目標を引き上げるメカニズムとして、5年ごとの見直しを規定している。各国は、既に国連に提出している2025年、2030年に向けての排出量削減目標を含め、2020年以降、5年ごとに目標を見直し提出する。次のタイミングは2020年で、最初の案をその9〜12カ月前に提出することが必要だ。その際には、2025年目標を掲げている国は2030年目標を提出し、2030年目標を持っている国は、再度目標を検討する。そして5年ごとの目標の提出の際には、原則として、それまでの目標よりも高い目標を掲げることとされている。各国はさらに気候変動の悪影響に対する適応能力と耐性(レジリエンス)を強化し、長期目標達成を念頭に置いた温室効果ガスの排出の少ない発展戦略を策定し2020年までに提出することが求められている。
以上の内容は、脱化石燃料社会(ゼロ炭素社会)への移行の強いシグナルを市場に送るものだ。
2℃(1.5℃)目標の意味するもの
2℃目標は、もともとは国連気候変動枠組み条約第16回締約国会議(COP16、メキシコ・カンクン)で合意された世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して2℃未満に抑えるという目標である。今回のパリ協定ではさらに「2℃よりも十分に低く」(2℃目標)抑えることに加え、「1.5℃に抑えるための努力を追求する」こと(1.5℃目標)が明記された。これは小島しょ国などの懸念に配慮したものであるといわれている。
全球平均気温は、産業革命以降現在までに既に1.0℃程度上昇している。脆弱な分野・地域では気候変動の影響が顕在化している。今後温暖化が進行すると、動植物の分布変化、希少生物の絶滅、山岳氷河の後退、気象災害、さらには農業や経済などへの影響はさらに大きなものになることが予想される。また、低緯度地域の途上国や小島しょ国では、全球平均の気温上昇が2℃以下でも農作物収量への悪影響や海面上昇による被害が生じると予想される。2℃を超えて気温が上がり続けると、悪影響にさらされる分野・地域がさらに拡大する。
気温上昇抑制の目標は、このような許容しがたい影響をどのようにして回避するかという観点から、温暖化影響に関する科学的知見を参照しながら、目標達成によって軽減できる影響被害量、目標を達成しても残る影響と被害の量、目標達成に要する排出削減努力の費用などを総合的に判断し検討され、最後は政治的・政策的に決定される。COP21で2℃目標が各国合意の上で明記され、1.5℃目標も言及されたことは画期的なことであるといえる。
途上国への資金支援および「損失と被害」、取り組みの検証
もう一つの争点は途上国への資金的支援であった。これについては2020年から実施される年間1,000億ドルの支援の水準を2025年にかけて引き続き目指し、2025年以降については1,000億ドル以上の新たな目標を設定することが決められた。経済力がある新興国なども自主的に資金を拠出できるとした。先進国は資金支援の状況を2年に1度報告する義務を負う。
さらに、気候変動の影響に適応しきれずに実際に「損失と被害(loss and damage)」が発生することを独立の問題として認識し、被害が生じてしまった国々への救済を行うための国際的仕組みが整えられることとなった。各国の削減目標に向けた取り組みや他国への支援については、定期的に計測・報告し、国際的な検証をしていくための仕組みが作られた。これは実質的に各国の排出削減の取り組みの順守を促す仕掛けだ。
COP21成功の背景
COP21で歴史的な合意に達することができた背景にはいくつかの要因がある。第1は、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)などの活動により、気候変動に関する科学的知見が蓄積され、それがより確かなものとなってきたこと、そして気候変動が背景にあると考えられる極端な気象現象による被害が世界各地で頻発していることがあげられる。
第2は、気候変動の原因物質である温室効果ガスの2大排出国かつ経済大国である米国と中国が積極姿勢に転じたことである。2014年11月12日の米中首脳会談後の「気候変動とクリーンエネルギー協力に関する米中共同声明」を受けて、米国は2025年までに2005年比で26〜28%削減、中国は二酸化炭素(CO2)排出量を2030年ごろのなるべく早い時期にピーク(頭打ち)にするとの、従来と比べより踏み込んだ野心的目標を発表した。現実に米国では石炭火力発電所に対する規制が強まり、温室効果ガスの排出量は下降トレンドにある。中国でもPM2.5 による大気汚染の深刻化もあり、石炭の使用量を抑える方向にあり、2013年に石炭消費はピークを打ったとみられている。中国は今や世界有数の再生可能エネルギー大国で、2013年末の風力発電の累計導入量は、9,100万キロワットとなり、世界1である。その発電量(135テラワット時)は、中国全体の約2.5%に相当し、原子力発電の発電量(112テラワット時、2.1%)を超える。
米中のイニシアティブは欧州連合(EU)が2014年10月24日に2030年40%削減(1990年比)の目標に合意したこととも相まって、他の多くの国に積極的な取り組みを促し、COP21での合意へのモーメンタム(勢い)を作ることとなった。
第3に、2015年6月18日に発表されたフランスシスコ・ローマ法王の環境と気候変動問題をテーマにした回勅の影響がある。回勅とは法王による最も重要な文書の一つで、環境と気候変動問題をテーマとしたのは初めてであった。回勅では、気候変動をはじめとする環境問題に関する最新の科学的研究を踏まえ、現在の生産・消費パターン、生活スタイルを「持続不可能」とし、それらの抜本的転換を訴えた。世界のキリスト教徒は20億人、そのうちカトリックの信徒は12億人で、米国でも8千万人近い信徒がいる。米国民の4割は進化論を受け入れず、人為的な温暖化にも懐疑的であるといわれているだけにそのインパクトは大きかった。ローマ法王は2015年9月のニューヨークでの国連総会と、ワシントンでの合衆国議会合同会議で演説し、この回勅の趣旨を訴え、11月30日からパリで開催されたCOP21の議論にも少なからぬ影響を与えた。世界最大の宗教界の指導者であるローマ法王の気候変動と環境に関する回勅は、気候変動をはじめとする地球環境問題が今や宗教的・倫理的にも重要な課題として認識されていることを示すものであった。
第4に、2015年9月25日に、ニューヨーク・国連本部で開催された国連サミットで「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals:SDGs)が採択されたことである。SDGは2016年から2030年までを対象とした17のゴールと169のターゲットで構成される国際社会共通の目標である。17のゴールのうち少なくとも12は環境関連である。SDGsの前身であるミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs、2000年に国連で採択され、2015年を目標達成年とする)が、途上国の開発目標を定めたのとは異なり、先進国を含む全ての国に適用される普遍性が最大の特徴である。前文の「誰も取り残さない」との言葉が示すように、特に社会的な弱者に配慮した、包摂的で公平で環境的に持続可能な地球社会への移行の道筋が強調されている。
第5にCOP21のホスト国となったフランス政府の巧みな外交手腕があげられる。2009年にやはり各国首脳が集結したCOP15(デンマーク、コペンハーゲン)での合意失敗の経験から学び、フランス政府はオランド大統領、ファビウス外務大臣(COP21議長)をはじめとして、政府一体となって事前に周到な準備を展開した。とりわけすべての国の参加と意見を取り入れる透明性の高い議事運営は、各国の参加者から異口同音の称賛が与えられた。パリでは直前に悲惨なテロが起こり、COP21の開催そのものが危ぶまれたが、テロの脅威を気候変動という地球的課題への国際社会の連帯した取り組みに転化することに成功した。
COP21の示すメッセージをどう受け止めるか
COP21が示す将来社会はゼロ炭素の社会である。各国がこれまでに提出している約束草案(自主目標)がすべて実施されたとしても2℃未満の目標には程遠い(欧州のシンクタンクであるClimate Action Trackerによれば2.7℃)。2℃という目標(ましてや1.5℃)を達成するために世界全体で排出できる温室効果ガスの量には限界がある。しかもその限界が近づいている(猶予期間は現状の排出量ではあと20から30年)。世界全体で早急に温室効果ガス排出量の大幅な削減が求められている。
日本政府は、当面は2030年目標に向け、5年ごとの目標強化を視野に入れ、具体的計画や政策を明確にした地球温暖化対策計画を早急に策定し、速やかにパリ協定を批准することが求められる。気候変動への戦いはまさに総力戦である。エネルギーシステムや社会インフラの大転換が必要だ。
一方日本は閣議決定された環境基本計画に基づく2050年の80%削減目標を堅持している。これに向け国内対策を充実させ、長期低排出発展戦略の策定が求められる。そして炭素の価格付けと再生可能エネルギー拡大を支援する電力システム改革への転換が不可欠である。炭素の価格付けの政策としては、本格的炭素税の導入と、温室効果ガスの総量抑制をした上での排出量取引制度の検討を俎上(そじょう)に上げなくてならない。このことによってCO2の排出には本来の社会的コストを負担させることになる。気候変動対策の技術はすでに十分にあるので、金融・税制などにより、投資の資金の方向と配分を変えることが重要である。また、都市構造や居住環境の改善、適応対策など、政府と自治体の取り組みは待ったなしである。
企業にとってもパリ協定は大きなインパクトがある。今後化石燃料を使い続けることによる環境的・法的・経済的リスクはますます高まっていく。そうした中で、投資家・経営者は賢明な長期的判断が求められる。現実に化石燃料会社に流れていた資金が見直され、投資の引き上げが始まっている。金融安定理事会(FSB、議長・マーク・カーニー、イングランド銀行総裁)では、世界の金融システムが持つ気候変動リスクに関するタスクフォースを立ち上げている。気候変動に対応しないと企業の存続も危ぶまれる。むしろ気候変動をビジネス・チャンスとしてとらえ、国際ルール作りに参画し、今後の経営戦略によって気候変動を競争優位に変えることが望まれる。
パリ協定とCOP21決定は、国際社会が協調して取り組むべき課題と枠組みを提示した歴史的な大きな一歩である。しかし今後たどらなければならない長い道筋のほんの一歩に過ぎない。真の課題は、ゼロ炭素でレジリエントな未来への大きな転換を、社会のすべてのレベルで迅速に成し遂げることである。
松下和夫(まつした かずお) 氏のプロフィール
京都大学名誉教授、東京都市大学客員教授、(公財)地球環境戦略研究機関(IGES)シニアフェロー、国際協力機構(JICA)環境ガイドライン異議申立て審査役。1972年に環境庁入庁後、大気規制課長、環境保全対策課長等を歴任。OECD環境局、国連地球サミット(UNCED)事務局(上級環境計画官)勤務。2001年から2013年まで京都大学大学院地球環境学堂教授(地球環境政策論)。環境行政、特に地球環境・国際協力に長く関わり、国連気候変動枠組条約や京都議定書の交渉に参画。持続可能な発展論、環境ガバナンス論、気候変動政策・生物多様性政策・地域環境政策などを研究。主要著書に、「地球環境学への旅」(2011年)、「環境政策学のすすめ」(2007年)、「環境ガバナンス論」(2007年)、「環境ガバナンス」(市民、企業、自治体、政府の役割)(2002年)、「環境政治入門」(2000年)、監訳にロバート・ワトソン「環境と開発への提言」(2015年)、レスター・R・ブラウン「地球白書」など。