「ものづくり国のシンボル- 東京スカイツリーの魅力とは」
高さ634メートルという世界一の電波塔、東京スカイツリーの建設が着々と進んでいる。設計・監理を日建設計、施工を大林組というタワーや高層ビル建築で十分な実績を持つ企業が担う一方、名高い彫刻家で元東京芸術大学学長の澄川喜一氏がデザイン監修者としてかかわっていることが注目される。監修を任された理由や東京スカイツリーに込められた造形的魅力は何かを澄川喜一氏に聞いた。
―東京スカイツリーの魅力についてもう少しお話願います。設計の時点で日建設計の技術者とぶつかって、なんて面白いエピソードはありませんか。
それはもう侃々諤々(かんかんがくがく)で…。しかし、とことんぶつかりあってといったことはそんなにありませんよ。日建設計というのは、日本の大きな塔はほとんど造っている立派な設計事務所です。そもそもいくら不思議なもの造ろうとしたところで、構造的に駄目なものは駄目ですから。始める段階で、できる範囲というのは分かります。
色は、時間をかけました。日本には四季があり、塔が建つところこれから発展する地域です。それならふさわしいのはやはり白色系がよいだろう、と。色を決めるのに1年かかりました。実際にビルの上に置いて調べたり、四季がある日本に映える色は何か、探しました。白と言っても、藍(あい)色がちょっと入っているのです。塔は丸いパイプで組まれている、ということは前に話しましたが、丸いと影がやさしいのです。天気のよい日など太陽の影がやさしく現れ、青く見える時もあるのです。
高さだけ自慢していたら、1メートルでも高いものを、という競争になってしまいます。だからデザイン発表の時に、盛んに言ったのです。これは手作り、ものづくり精神のモニュメントだ、と。パイプの接合一つとっても、すべて熟練した溶接工が一つ一つ丁寧にやっています。日本の精神が込められている、ということを日本としてもっと内外に発信すべきです。そうすれば日本企業も力がわくでしょう。外国だったら、政府が先頭に立って宣伝し、この技術を外国に売ろうとしてますよ。
―ところで岩国工業高校時代に彫刻家を志したということですが、工業高校時代の生活はどのようだったのでしょう。
旧制の岩国工業学校に入学した年に終戦となりました。終戦の日の前日、岩国は大空襲を受けましたが、学校や錦帯橋のある岩国市西部の城下町は被害がありませんでした。戦後まもなく学校に美術部をつくったのですが、美術を指導してくれた先生に東京芸大の前身である東京美術学校を卒業された方がおられました。その先生は彫刻家で、粘土もない時代だから山に粘土をとりによく一緒に行ったものです。絵の具までつくってしまう面白い先生でした。「何でもやれ。何でもできなきゃ駄目だ。自炊もしろ」とも言われました。この先生には、だいぶ影響を受けたかもしれませんね。
戦後すぐに、岩国にはまず米海兵隊が駐留し、西部劇など映画もドッと入ってきました。絵がうまいという評判が映画館の社長の耳に入ったらしく、2年生で映画の看板描きをやらされました。映画がものすごく流行ったので、客の入りを左右する看板を描く宣伝部はエリートだったのです。看板は全部手描きで仕上げないといけません。とにかく早く描かなければならないんです。泥絵の具という安い顔料をニカワで溶かして看板を描くと1週間くらいは雨にあたっても大丈夫なのです。
工業学校2年といっても入学した時点では旧制ですから、今の中学2年生です。褒めると豚も木に登るというやつで、乗せられてしまったわけですね。中学生に映画の看板描かせた社長も偉いと思いますけど。ものがない時代にたっぷり絵の具やキャンバスをもらいました。子どもだから給料はやれないがその代わりに、ということです。それから私の顔で、同級生たちが映画をただで見せてもらっていました。看板を描いたおかげで似顔絵もうまくなり、先生の似顔絵を描いてあげたものです。それが私の卒業作品でした(笑い)。
―東京芸大に入学してから、科学警察研究所で復顔の技術開発を手伝ったということですが。
東京芸大彫刻科の菊池一雄先生が東京大学の卒業生だったからです。それで人類学者として有名な東大の鈴木尚先生から菊池先生に相談があったのです。鈴木先生は縄文、弥生、古墳時代の顔を復元できないか考えていました。菊池先生からお前が向いていそうだから、手伝いに行ってこいとなったわけです。頭蓋骨は、縄文、弥生、古墳時代でそれぞれ形が違います。科学警察研究所は、現代人の骨にどのように肉がついているかを知る資料を持っていました。この個所には何ミリの肉がつくという科学警察研究所のデータを基に、縄文、弥生、古墳時代の日本人の顔を粘土で復元してみようとされたわけです。
東大に行って復元作業をする際、「縄文人はどんな顔ですか」と聞いたら「緒方拳のようなイメージで」といわれたことを覚えています。弥生人が瓜実(うりざね)顔だったのに対し、縄文人はがっちりした顔立ちだったということです。
そんなことをしているうちに、科学警察研究所から事件の手助けをしてほしいという話が来ました。もともと古い骨が出た時に、その年齢や性別を判断するのが鈴木先生は得意だったのです。骨の断片があると頭蓋骨は復元できますから、それに粘土をつけて顔を復元してほしいという要請でした。性別に合わせ着色もし、もし出てきた髪の毛からパーマをかけていることが分かれば、髪型もパーマにしたりしたものです。
米国では当時、既にこうした分野が発達し、犯人探しのために専門のアーチストがまるで生きているように顔を再現していました。日本もやらなければ、ということで私も引っ張り込まれたというわけです。2-3本、ホームランのような成果も挙げました。
―ご記憶に残るような成功例を教えてください。
戦時中に多くの防空壕が掘られましたね。掘った穴の表面をきちんと覆っていないため、土が崩れて埋まってしまい危険な状態になっている防空壕もあったのです。危険だからというので土を掘り返した所から、殺人事件の被害者らしい人の骨がたまたま出てきたということがありました。白骨になって土圧でばらばらになっていましたが、頭蓋骨を復元して粘土をつけ、顔もつくりました。それで被害者が分かったのです。
―この人は鼻が開いているかどうかなんて細かいことまで分かるものでしょうか。
骨から分かります。分からないのは耳と目。耳の形で人相は変わってしまいますが…。目が二重か一重かというのも、もう想像ですね。頭蓋骨をじっと見つめ「あなたはどんな顔をしていたの」と語りかけたりして…。ちょうどそのころ3億円事件が起きました。あれは早く犯人の顔のモンタージュ写真を発表してしまったため、かえって犯人が捕まらなかった、ともいわれています。印象が固定されてしまったのが、逆効果だったのです。
だから私たちは、顔は正確に復元した上であえて、写真はぼかすということをしました。復元したものをそのまま示すと、ちょっとした違い、似ていないところが目について、かえって似ていないという印象を強めてしまうのです。昔、テレビでガラス越しに映った姿から、相手を当てるという番組があったでしょう。知っている人は、ぼやっとした像からでも雰囲気で分かるのです。これが大いに勉強になりました。
科学警察研究所には4-5年通ったでしょうか。「お昼だからすしをとったよ」などと言われたことがありましたが、あれには弱りましたね。食事をするすぐそばに骨片などが転がっているのです。科学警察研究所の人たちは全く平気でしたが。
(続く)
澄川喜一(すみかわ きいち) 氏のプロフィール
島根県生まれ。山口県立岩国工業高校機械科卒。1956年東京芸術大学彫刻科卒、58年東京芸術大学専攻科修了、同大学彫刻科副手、61年彫刻家として独立し、作品を数々の展覧会に出品。67年彫刻科講師として東京芸術大学に戻る。助教授、教授、美術学部長を経て95年学長。2003年同名誉教授。08年文化功労者に。日本芸術院会員。島根県芸術文化センター長、石見美術館館長、横浜市芸術文化振興財団理事長、山口県文化振興財団理事長も。そりを生かした木彫作品で注目され、御影石やステンレスなどの野外彫刻、さらに大きな環境造形作品と表現法は幅広く、注目される作品も数多い。代表作は、環境造形「風の塔」(東京湾アクアライン浮島人口島)、同「カッターフェイス」(東京湾アクアライン海ほたる)、野外彫刻「鷺舞の譜」(山口県庁前庭)、同「光庭」(三井住友海上火災保険ビル)同「そりのあるかたち」(札幌芸術の森野外美術館)、木彫「翔」(京都迎賓館)、同「そりのあるかたち02」(日本芸術院)、御影石彫「安芸の翼」(広島市現代美術館)、同「TO THE SKY」(岐阜県民ふれあい会館)、金属彫「光る風」(JR釧路駅)、同「TO THE SKY」(国立科学博物館)など多数。
関連リンク
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