インタビュー

第1回「異分野の架橋・融合こそ」(小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー)

2010.06.24

小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー

「脳科学で教育を変える」

小泉英明 氏

ゆとり教育からの脱却と評される小学校の新しい教科書が姿を表した。来年度から使われる。中には、これでゆとり教育が完成したのだと主張する人もいるが、ゆとり教育によってもたらされた基礎学力低下にようやく歯止めがかかる、と期待する向きが大方のようだ。なぜ、教育政策が揺れ動いてきたのだろう。脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、実際に意欲的な大規模研究プロジェクトを主導してきた小泉英明・日立製作所役員待遇フェローに意図はどこまで貫かれ、何が依然、未解明なままかを聞いた。

―海外でも例がないような大きな課題に挑もうとしたきっかけ、理由から伺います。

科学技術庁(当時)が始め、新技術事業団(現・科学技術振興機構)が引き継いだ異分野研究者交流フォーラムというのがあります。これが異分野の架橋・融合をいち早く実現しようとした代表的な試みだったと思います。私は1994年、“Probing into the Brain”というフォーラムで、脳機能計測のセッションを担当しました(フォーラム・コーディネーター:田中啓治・理研国際フロンティア研究システム主任研究員、現在、理研脳科学総合研究センター副センター長)。今ではfMRI(機能的磁気共鳴イメージング)と呼ばれる外から脳の機能を安全に計測できる装置を、日立中央研究所で開発した数年後です。造影剤を使って1991年にMRIで人間の脳機能イメージングに成功したハーバード大学のジャック・ベリボー博士や、当時、米国立衛生研究所(NIH)で磁場強度4TのfMRIで実験していたデニス・ルビアン博士(現在、世界最高磁場のfMRIを有するフランスのニューロスピン研究所長)などの知己を招待しました。現在では、当時米国ベル研究所にいたセイジ・オガワ博士が、ミネソタ大学のMRI装置(4T)を使用して1992年に行ったfMRI実験がよく知られています。

その後1996年に、小田稔・国際高等研究所所長ほかの推薦もあって、環境計測をテーマにした異分野研究者交流フォーラムのコーディネーターを務めました。ここでは「脳と環境の相互作用」という、環境分野としては少し場違いに見えるセッションも企画しました。異分野の架橋・融合といっても、適切な講演者をお願いすることからして簡単ではありませんでした。京都大学霊長類研究所に「どなたかこうした文理融合型フォーラムで、脳と環境の相互作用について話してくれる研究者はいないか」と、夜遅くに電話をしたことがあります。「そんな研究者などいませんねえ」。たまたま電話に出られた久保田競所長(当時)にそう言われてしまいました。しばらくして久保田先生ご自身から「自分が勉強して参加する」という電話をいただきましたが(笑い)。

そうした経験を積む中で「教育を自然科学の視点で見直せないか」という思いを強めたのです。21世紀を目前にした2000年の12月には、再びコーディネーターを務めることとなり、科学技術振興事業団(現在の科学技術振興機構)のご支援の下、「脳を育む:学習と教育の科学」と銘打った4日間の異分野研究者交流フォーラムを開きました。神経科学者、心理学者、医学者、社会学者、教育学者、言語学者、経済学者、霊長類学者、物理学者から音楽や能の専門家という多彩な参加者に対し、私が強調したことは、人間が生まれてから死ぬまでのすべての学習(外部刺激による神経回路の構築)にかかわる包括的概念として、自然科学から新しい教育のコンセプトを提示しようというものでした。科学に立脚した教育を21世紀のサイエンスのハイライトとして位置づけよう、と考えたのです。ここでいう教育は広い意味をもちます。保育・育児から初・中・高等教育、言語教育・芸術教育から企業内教育、さらには特殊教育からリハビリテーションまでを含む広範な概念です。もちろん、混迷を深める今の日本にとって、切り札となろうとしている「人材教育」も含まれます。

このフォーラムで参加者にお示しした図があります。生命が進化して来た過程で、情報処理との関係がどうだったかを概念的に示したグラフです。生命は遺伝子の形で情報を次の世代に受け渡すことにより、個体の再生を繰り返します。生命の知恵は遺伝子の形で蓄積されてきたのです。オトシブミという、卵を産み落とすときに実に見事に葉っぱを巻いたり切ったりする昆虫がいます。よく引用されますが、遺伝子の形で受け継がれている知恵の典型です。

一方、進化の歴史の中で中枢神経系が出現したのが、5億年前あたりと考えられています。例えば、最近、全遺伝子の解析がされたナメクジウオ(脊(せき)索動物)は、5億年前に生息したハイコウエラの化石と酷似していますが、まだはっきりした目がありません。神経系は個体の運動制御によって、一世代でも環境に対して幅広く適応することが可能です。外からのいろいろな環境条件変化に対処できますから、個体の再生を繰り返すことによって、突然変異で環境によりよく適応していく遺伝子とは本質的に違います。さらに、進化した大脳皮質によって、環境因子に幅広く対応できるようになりました。人間は他の動物と異なり、火を使い、道具を作るための道具まで作り、階層構造を持つ文法を操り、未来を語りますが、これらは遺伝子とあいまって神経系の学習がなせる技です。

生命にとって、DNAの塩基配列による遺伝子がすべてであるかのように言われることがありますが、これは正確ではありません。遺伝子で決定される先天的、すなわち「ジェネティック」な部分と、環境で発現が調整される「エピジェネティック」な部分とがあります。進化が進んで神経系の役割が大きくなってくると、さらに環境因子による広義のエピジェネティックな過程が重要になってきます。人間の高度な脳機能の多くは、環境からの学習によって形作られる神経回路網によって実現されるのです。学習・教育を生物学的視点、すなわち自然科学から見ることができるということを、このグラフによって説明しました。

当時、2000年の世界科学会議(通称ブタペスト会議、吉川弘之会長)の直後で、「社会のための技術」が求められていたことや、科学技術庁の結城章夫科学審議官(後に文部科学事務次官、現・山形大学学長)、さらに前年まで文部大臣と科学技術庁長官を兼務されていた有馬朗人先生、そして科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)の川崎雅弘理事長(当時)ほか、フォーラムに出席してくださった方々が、強い関心を寄せられたこともあり、翌2001年に公募型研究「脳科学と教育」が立ち上がりました。

―それにしても、当時よく研究費がつきましたね。例えば記憶がどういうメカニズムで形成されるかといった脳科学領域内の問題すら完全には分かっていない時期だったのではありませんか。

その数年前に言語学者として著名なノーム・チョムスキー米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授に「先生の変形生成文法理論(注)を、第二言語(L2)学習に応用してみたい」と言ったら「私の研究分野は、応用には直接結びつかない」と言われました。「あなたの物理学で言えば素粒子論に当たるものだからだ」というのです。もっとも、この話をハーバード大学の教育学者、カート・フィッシャー教授にしたところ「それはチョムスキーらしい表現であって応用可能性はあると思う」と言っていただきましたが。

公募型研究「脳科学と教育」が立ち上がった翌2002年に文部科学省に「『脳科学と教育』研究に関する検討会」(座長・伊藤正男・理化学研究所脳科学総合研究センター創立所長)が設置されます。同年7月の「中間とりまとめ」で「関係する科学技術と架橋・融合し、新たな視点に立った取り組みにより研究を推進するという基本的な研究の進め方が打ち出されました。中間とりまとめに沿って作業部会が設けられ、私が主査に任命されます。作業部会の検討結果に基づき、翌2003年7月に「『脳科学と教育』研究の推進方策について」が公表されました。

ここでもあらためて「脳科学と教育」研究を推進するに当たっては「異分野の架橋・融合による新分野の創出」という方向が打ち出されました。機械時計を分解するのは簡単ですが、いったん分解された部品を組み立てて、機能を発揮するシステムに戻すのは容易ではありません。分解と同時に部品の関係性が失われるからです。総合や統合には、逆問題が含まれる点にも十分留意してあたる必要があります。20世紀には要素還元論を基調とした科学技術が目覚ましい発展を遂げましたが、21世紀は俯瞰(ふかん)統合の時代、つまり専門細分化された諸分野を、鳥が大空から大地を見るように、鳥瞰・俯瞰的に架橋・融合して新分野・新技術を創出することが中心課題となるでしょう。学問だけでなく、産業を含む社会の諸々の課題を解決する上でも、架橋・融合を可能とする「俯瞰統合論」が不可欠だと思います。

  • (注)変形生成文法理論=すべての言語には共通する特性があるという考え方が特徴

(続く)

小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)
小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)

小泉英明(こいずみ ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒、1971年東京大学教養学部基礎科学科卆、日立製作所入社。計測器事業部統括主任技師、中央研究所主管研究員、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年から現職。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出(1975年)したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置(1985年)、MRA(磁気共鳴血管撮像)法(1985年)、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置(1992年)、近赤外光トポグラフィ法(1995年)など脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域総括。02年度から経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」 国際諮問委員。国際心・脳・教育学会(IMBES)創立理事、MBE誌創刊副編集長。著書に「脳は出会いで育つ:『脳科学と教育』入門」(青灯社)、「脳図鑑21:育つ・学ぶ・癒す」(編著、工作舎)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)など。

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