「オーダーメイドがん治療目指し」
がんの治療法は年々、進歩している。しかし、一方では抗がん剤が全く効かなくなり、大病院からも見放された患者の数もまた増えている。「がん難民」とも呼ばれるこうした患者たちに希望を与えることはできないのだろうか。がん細胞をつくる遺伝子を見つけ、それをもとに治療薬を開発する努力を続ける中村祐輔・東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長に新しいがん治療薬開発の見通しや、開発を妨げている問題点を聞いた。
―米国と異なり、日本ではオーダーメイド医療の本質が十分理解されていないということでしょうか。
一人一人に薬をつくるのか、などとばかなことを言っている人がたくさんいます。そうではなくて、今ある薬のうちから、この薬はこういう人たちにいいのではないか、という医療です。先ほどの乳がんの話もそうですけれども、飲んでも全然意味がない人に投与し続けるというのは、医療行為として考え直す時期にきています。もっと別の治療法を選択すると、その人は再発しないかもしれないのです。
エビデンスに基づく医療とはこのような医療を指します。日本で多くの医師が用いている「エビデンスに基づく医療」は、統計学的に二つの治療法を集団間の差を比較してどちらの治療法がいいのかを選んでいます。しかし、これは「コンセンサスに基づく医療」と呼ばれています。考え方が10年は遅れているように思います。
幸いに「この薬、この治療法は目の前の患者さんに本当にベストなのか」ということを考えるような医師がようやく増えてきました。今、われわれはタイの厚生省と一緒にやっていますが、タイのような国はジェネリックの薬、要するに安い薬を使うわけです。エイズの患者にそうした安い薬を使うと、一定の割合で副作用が出ます。全身の皮膚にパッと赤い発疹(はっしん)が出て、命を落とす例があります。一緒に研究をやって、ある白血球の型を持っている人には非常に起こりやすいということが分かり、今ではそういう人にはその薬を出さないということをしています。
―命を短くされなくて済む患者がいるということですね。ところで先生が追求しておられる医療の基盤となるのが遺伝子多型データベースかと思いますが、そちらの方の整備は着々と進んでいるのでしょうか。
いえいえ、来年度は概算要求時点で大幅に削減されました。すべての面で国家戦略が欠如しています。今、いろいろな病気を持ったDNAが30万症例分、集まっています。それを順番に今、解析していて、一昨年は生活習慣病とがんを、昨年からは肝臓や子宮の病気をやっています。糖尿病でも、日本人に特異な新しい遺伝子が見つかっています。糖尿病患者が腎臓をやられて透析になると患者さんのQOL(生活の質)がすごく悪化します。どういう遺伝的な背景を持つ人がどういう不健康な生活を送ると腎臓がやられやすいかが分かれば、それを予防できなくても、少なくとも透析に入るのを遅らせることはできますよね。それは患者さんが健康に生活を送るという観点からも大事ですし、国の医療費節減という面からも大きな意味があります。
ただ、先ほども言いましたように、やっぱり人間というのはものすごく多様なわけです。遺伝子は多様だし、生活スタイルもばらばらです。この多様な遺伝的背景、多様な生活スタイルから科学的に正しい答えをみつけるためには、膨大な数の患者さんから膨大なデータをとらないとできないわけです。こういうことに対する理解がほとんどありません。
―例えば、遺伝子多型データベースを何十万人分ぐらい増やして各医療機関にどういう検査能力を付与すれば、こういうことが可能になる、ということは言えるのでしょうか。
一つ一つの薬では、今、幾つかデータがあります。例えば、先ほど話した乳がんの薬はタモキシフェンといいますが、おそらく日本で年間50億円から100億円使われています。しかし、日本人の5人に1人は飲んでも意味がないわけですよ。単純に考えれば、10億から20億円は何の意味もないのに患者さんに出されていることになるわけです。再発も防げません。意味もない薬を別の薬に換えて再発を減らすことができれば間違いなく全体の医療費は減るはずです。効かない薬を飲み続けて再発した患者さんの苦痛や、かかる医療費を考えれば今の状況がよくないのは明らかです。
もう1つ、ワーファリンという薬はオバマさんの法案の中にも書かれていますが血を固まらなくする薬です。例えば、心房細動という病気は心臓が震えると血の塊ができて、それが脳に飛ぶと脳血栓、脳梗塞(こうそく)になるんです。血が固まらなくするために飲むわけですが、その薬がきちんと使われていないのです。ワーファリンという薬は、必要な量が患者さんによってかなり違うからです。多く与えすぎると、逆に出血しやすくなります。出血させてしまうとどうしてもお医者さんは罪悪感を持ちますし、何より一歩間違うと訴訟沙汰になる昨今の世情にも影響を受けています。
このため医師はどうしても薬を少なめに使う、あるいはこの薬は使わないということになりがちです。病気が進んで、心房細動から脳血栓や脳梗塞になっても、これは仕方がないと考えてしまう医師が多いのです。
ところが米国の試算ですと、患者の遺伝子を調べ、適正な量を予測して薬を与えてやると年間10万人もの脳梗塞あるいは出血を防ぐことができるという結果が出ています。8万人ぐらいの出血を避けられて、1万何千人かの脳梗塞を防ぐことができる。それによって1,000億円もの医療費も節約される、というわけです。
―なるほど。こういう数字がもう少し世の中に出回れば、随分理解が進むと思いますが。ただ、その前提としては、患者を扱うところが遺伝子データを検査する能力と読み取る能力がないとできないですね。
ワーファリンやタモキシフェンは現場でもう使い始めています。抗がん剤の副作用予測も始めています。遺伝子の検査も研究としてやり始めています。検査機械も凸版印刷と共同でつくっています。すでに試作機が20から30台あり、45分間で、血液1滴から判定できます。商品として、もうすぐ出ますが、日本では審査がなかなか難しいので、米国へ持っていきFDA(食品医薬品局)で承認を取ろうかと思っています。
―日本でつくられた医療機器がFDAで承認されて、それを輸入する。何か奇妙な話ですね。
要するに、日の丸印の薬、医療機器を出すんだという、国の大きな意思決定がないと厳しいですね。日本には研究をどうするかというグループはありますが、本当に基礎から臨床への流れをどうつくっていくのかということがちゃんと分かっている人が物事を判断していかないと無理です。がんワクチンも、結局、文部科学省と厚生労働省のはざまのところで行き場がない。そんな感じです。
日本の仕組みにいろいろ問題があるから、今、どんどん製薬企業の基盤が海外に移っています。欧米の大手製薬企業の研究所も日本からほとんどいなくなりました。筑波地区なんかすかすかですよ。移転先は中国か、シンガポールです。日本の製薬メーカーで海外に研究所を移すというところはさすがにないですけれども、治験を海外から始めるというところはたくさんあります。
オーダーメイド医療に関しては、これはもう間違いなく、世界はその方向に向かっています。しかし、そのために必要なインフラの整備も、遺伝子情報を扱うときのルールづくりもできていないのが問題です。遺伝子というとハードルが非常に高くなるのですが、実際、輸血のときには血液型を調べるわけです。あれも要するに遺伝子の裏返しです。ですから、医療上、有用な遺伝子を医療の現場で使うときのルールづくりを早急にやる必要があるのです。ゲノム研究指針のようないろいろな指針にがんじがらめになっており、それも法律なのか、ガイダンスなのか、ガイドラインか分かりません。そうしたルールづくりが必要であることに加え、もう少しするともっとゲノムの情報が利用されるようになる場合が来るということを想定して、情報管理も含めたインフラの整備が必要なのです。
がん対策基本法ができましたが、研究成果から新しいものを出していく道筋が全然できていません。例えば、今、われわれに協力していただいている多くの先生方というのは、がんの医療を変えたいし、目の前で苦しんでいる患者さんを何とかしたいと思っている人がたくさんいます。その人たちを勇気づけるような国の政策がないわけです。
結果的に相変わらず、がん難民が行き場を失って、日々泣き暮らしています。私のところにも飛び込みで相談に来られるような方もいますけれども、皆さん希望をもって来られるのですが、対応できないような状況の場合、肩を落として部屋を出ていかれる姿を見るのはつらいものです。国家戦略をしっかりと立て、戦術を組み立てて予算を利用すれば、効率的に医薬品や診断薬につなげていくことができるはずです。問題の一つは、予算が不足していることですが、目利きの生命科学のリーダーがいない現状では予算だけ増やしてもどうにもなりません。
多くの生命科学研究者は研究は楽しいものだと言っていますが、医学は自分が楽しむ学問ではなく、患者さんを救えなければ意味がありません。苦しくてもつらくても、患者さんのために歯を食いしばって頑張り続けるのが医学です。ほんの少し仕組みを変え、医学という言葉を大事にするような方向を見据えれば、多くのがん難民や難病の患者さんを救える国になると思うのですが。
(完)
中村祐輔 (なかむら ゆうすけ)氏のプロフィール
1971年大阪府立天王寺高校卒、77年大阪大学医学部卒、大阪大学医学部付属病院第2外科、大阪大学医学部付属分子遺伝学教室を経て、84年米ユタ大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員、87年ユタ大学人類遺伝学助教授、89年癌研究会癌研究所生化学部部長、94年東京大学医科学研究所分子病態研究施設教授、95年から現職。2005年から理化学研究所ゲノム医科学研究センター長を兼務。ブルガリア科学アカデミー会員。大規模DNAシークエンシングを行うシステムを構築し、疾患関連遺伝子の存在する領域を中心に年間3-400万塩基配列を決定し、がん、遺伝性疾患、循環器疾患、骨系統疾患、代謝異常などの発症あるいは増悪に関係する遺伝子の同定なども行っている。著書に「がんペプチドワクチン療法」(中山書店)、「これからのゲノム医療を知る―遺伝子の基本から分子標的薬、オーダーメイド医療まで」(羊土社)、「ゲノム医学からゲノム医療へ -イラストでみるオーダーメイド医療の実際と創薬開発の新戦略」(羊土社)など。