文部科学省「がんプロフェッショナル養成プラン」北海道の総合力を生かすがんプロ養成プログラム特別セミナー「がんの個別化治療」(2009年10月29日)講演から
How not to treat cancer、つまり有効な治療のみを行い、いかに無効ながんの治療をしないか、逆説的な表現である。究極には一人ひとりの患者さんに適した必要な治療のみを行い、不要な治療は行わないというのが目指すゴールだ。がんの個別化治療はまだ始まったところだが、徐々に広まりつつある。
近年、がんの分子生物学の進歩が著しい。鍵となる分子・分子経路の解明が進んでいる。がんの種類によって特定の分子を標的にした多くの薬が登場、診療に使われている。薬剤の効く人・効かない人を識別するバイオマーカー(注1)が研究開発されている。ここではまず3種類のがんにおける分子標的薬と臨床例の話題を、次に、人によって異なる副作用の現われ方に関係する遺伝子多型、結びにがんの個別化治療の課題について述べたい。
がんはなぜ生じるか。細胞の増殖因子が細胞膜上にある増殖因子受容体に結合すると、細胞内で次々と情報がシグナル伝達されていく。最終的に細胞が増殖、アポトーシス(注2)の回避、転移などが起きて、がんとしての形状を発現、患者さんを苦しめる。
乳がんの抗体薬、トラスツズマブ(商品名:ハーセプチン)は、主に乳がんで過剰に現れるErbB2(Her2)と呼ばれるたんぱく質の遺伝子を標的としている。Her2は、がんの活性化を促すエンジンの役割を果たし、薬を使う化学療法や放射線治療に抵抗性がある。本来死ぬべき細胞が死なず血管新生が起きて、増殖や転移、周囲にじわじわ広がる浸潤の大もとになる。Her2遺伝子に増幅のある乳がんの患者さんは、無い方よりも生存期間が短く、治療後の見通しがよろしくない。
そこで患者さんがトラスツズマブの治療に適応するかどうか、腫瘍(しゅよう)組織を免疫組織化学法かFISH法で検査する。FISH法でHer2遺伝子増幅がなければ効かないが、あれば効果が認められ、化学療法と併用したとき上乗せもある。しかしFISH法は非常に高価で時間もかかる。先に免疫組織化学法で調べ、3+は適応ありに、2+だとさらにFISH法でHer2遺伝子増幅の陽性・陰性を解析し、治療方針を決めている。
乳がんは、ホルモン受容体が陽性ならホルモン療法が有効な可能性が大きく、固形腫瘍のなかでは最も個別化治療が進んでいると言える。
非小細胞肺がんでは、上皮成長因子受容体チロシンキナーゼ(EGFR-TK)が悪性化に関わる。細胞膜の表面にあって、Her2の場合と同じようにさまざまな悪性形質への変換を起こさせる。このEGF受容体(EGFR)を標的にゲフィチニブ(商品名:イレッサ)、エルロチニブ(商品名:タルセバ)がつくられた。分子が小さいので脳転移などの腫瘍にも効果がある。経口剤であるし患者さんにとってメリットが大きい。
2002年、ゲフィチニブの奏効率が全体で30%ほどだった中で、非常に良く効いた患者さんがいた。その後の臨床的研究でEGFRの突然変異に対して効果があることが分かってきた。例えばEGFR遺伝子のエクソン19のD746-750に欠失がある場合、良く効くと予測された。投与24日目で腫瘍が非常に縮小、病変の消失を1年半以上維持できた臨床例がある。一方K-ras遺伝子変異には、薬に抵抗を示す耐性があり、全く効かない。
ゲフィチニブと従来の抗がん剤による標準的な化学療法との臨床比較試験(東アジア人、非・軽喫煙者、腺がん)では、ゲフィチニブの効果は著しく異なることが示されている。EGFR遺伝子変異があると悪化しない期間が延長したが、なければ治療しないも同然の状態だ。
2006年からゲフィチニブ北東日本研究グループ(注3)で行われた臨床試験(注4)をご紹介する。このゲフィチニブとプラチナ併用化学療法との無作為化比較試験では、あらかじめEGFRのスクリーニング検査で患者さんを割り振りしている。各々の治療群のデータが100例そろった2009年5月、中間解析をした。効果がでてから悪化しなかった期間は、化学療法群が166日、ゲフィチニブ群は317日。約2倍の差があり、効果が明らかになった。
しかしゲフィチニブには肺障害という生命にかかわる強い副作用がある。日本人では投与された患者の5〜6%にあらわれ、2.5%が亡くなっている。そういう結果を踏まえ、ベネフィットとリスクの両方のバランスを見て、間質性肺炎を持っている患者に対しては特に慎重な投与が求められる。
結腸直腸がんでもEGFRは悪性化を制御する重要な標的であり、抗体薬セツキシマブ(商品名:アービタックス)がつくられた。細胞外の部位に作用を発揮する。残念ながら感受性因子は今のところ不明である。耐性因子としてK-ras遺伝子の点突然変異が知られている。臨床試験ではK-ras遺伝子変異があるとセツキシマブは無効だった。上流のダムでせき止めても下流が大雨(活性型K-ras)の場合、その勢い(活性)を抑えることができない状態である。
実際に08年、他の治療が効かなくなった大腸がんの患者さんを対象にセツキシマブを単独投与した臨床試験例がある。K-ras遺伝子変異には、効果がなかった。
続いて肺がんや大腸がんなどに広く使われている抗腫瘍薬、塩酸イリノテカンの薬物代謝と遺伝子多型の相関について簡単にお伝えする。遺伝子多型とは遺伝子の塩基の配列が人によって複数存在すること。この薬の代謝にUGT1A1遺伝子多型による酵素の活性が関与することから、人それぞれの副作用のリスクが予測されるようになった。
米国では初回投与の減量を考慮すべきと薬剤添付文書に追記され、診断薬が承認されている。日本でも08年の添付文書改訂で、「十分注意する」と記載されている。UGT1A1遺伝子多型は人種間で分布差が見られ、アジア人に特有の要注意な型もある。
最後に、治療の個別化の大きな課題について。まず人種による遺伝子異常や遺伝子多型の差。日本人のデータが必要だ。海外との医療制度の違いにも着目しなければ。日本の国民皆健康保険は良い制度だが、遺伝子検査の診療報酬の点数はわずか2万円。同一の遺伝子検査は一生に1度しかできないと健康保険制度で定められている。そして日本で未承認の検査は健康保険の対象外だ。
化学療法では、仮に効き目に差があっても、今までは期間ごとに一定のコースの点滴治療を繰り返されなければいけなかった。その度に患者さんは入退院したり、辛い副作用に悩まされてきた。検査で薬剤の効果を予測することは有効な治療の第1歩である。
がん治療は遺伝子科学の進歩で新しい局面に入った。北海道大学では関係大学・機関の連携による総合的な実践的教育を行い、がん専門医療人の養成に取り組んでいる。困っている患者さんから情報をきちんと集め、円滑なコミュニケーションを図ることが重要。医療チームの中の情報共有も大切だ。一人ひとりに適した精度の高い治療で患者さんの負担が軽減されること。それは医療費の減少、ひいては社会全体の利益につながるのではないだろうか。個別化治療はこれからも進化・発展していく必要がある。
- 注1)
人の血液や組織に存在する生体物質で病気の状態や薬の効果などを判断するための科学的な指標 - 注2)
生物個体をより良い状態に保つために起こる、遺伝子によりプログラミング(予定)された細胞死 - 注3)
北海道大学第一内科・腫瘍内科、東北大学遺伝子呼吸器内科、日本医科大学第四内科、埼玉医科大学呼吸器内科ほか - 注4)
「EGF受容体遺伝子変異を有する未治療進行非小細胞肺癌に対するゲフィチニブとプラチナ併用化学療法との無作為化比較試験」
秋田弘俊(あきた ひろとし)氏のプロフィール
1981年 北海道大学医学部卒、87年米国立がん研究所(NCI)Navy Medical Oncology部門に留学、90年北海道大学医学部附属病院第一内科助手、97年同病院第一内科講師、2001年から現職、医学博士。専門領域は臨床内科学、肺がんをはじめとする固形腫瘍の診断・治療、分子生物学の臨床応用。日本臨床腫瘍学会理事(教育委員会委員長)、日本肺癌学会理事(細胞診判定基準改訂委員会委員長)。日本内科学会認定内科医・指導医、日本臨床腫瘍学会暫定指導医、日本がん治療認定医機構暫定教育医、日本臨床細胞学会専門医。