「オランウータンの生きる森」
来年10月、名古屋で開催される「生物多様性条約第10回締約国会議」(COP10)に向けて、国内でも生物多様性を維持することの重要性に関心が高まりつつある。一方で生物多様性の維持に大きな役割を果たしている熱帯林の減少はとまらない。インドネシアのボルネオ島で26年間オランウータンの生息調査を続けている鈴木 晃・オランウータンと熱帯雨林の会理事長にオランウータンと熱帯雨林との関係、生物多様性維持の意義について話を聞いた。
40数年大型類人猿の研究を続けています。大型類人猿の社会から私たち人間の家族がどのようにしてできてきたのかという私の師匠である今西錦司先生の提案から、ずっとこの道を進んでいるわけです。
最初は東アフリカでチンパンジーを研究しました。タンザニア西部のタンガニイカ湖の東岸と、ウガンダのブドンゴの森です。ところがアミン大統領が登場、新たな国づくりをやろうということで相当乱暴なことをやり始めました。研究を続けにくくなり、さてどうしようかということになり、東南アジアでオランウータンの研究を始めることにしました。オランウータンはジャングルの上で木の上に暮らしているので、餌付けできないから研究するには暇がかかるだろう、とだれも手をつけずにいたからです。
熱帯の森というのは赤道直下にあって、どんどん開発が進み、本当にいい森が残っているところは数少ないんです。そこで大型類人猿(グレイトエイプ)を守ろうということで、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が、数年前にGRASPという組織を立ち上げました。グレイトエイプス・サバイバル・プロジェクトの頭文字をとった略ですけれども、その事業がアフリカに偏っているんです。コンゴの動乱が終わって、コンゴベイジンプロジェクトというのがつくられ、米国が力を入れてやっているんですけど、そこにユネスコのGRASP資金が全部つぎ込まれてしまっています。インドネシアのオランウータン保護には、全然お金が入ってこないわけですね。インドネシアの政府にもGRASPに関係した委員がいるわけですけれども、彼ですら自国のオランウータンには見向きもしないような状態になっているわけです。
私が研究を始めたのはボルネオ島のクタイ国立公園というところです。私が行った83年当時はインドネシアに国立公園はなかったのですが、85年にクタイと、それからのタンジュン・プティンと2カ所が国立公園の指定を受けました。タンジュン・プティンは、今はカナダにいるガルデガスという女性の研究者がオランウータンの研究を1971年からやっていたところです。
私が初めてクタイに入ったのは、1983年の2月から5月にかけて、このあたり東カリマンタンの低地雨林は全部火が入って燃えた直後でした。人類史上始まって以来、燃えることはないといわれてきた熱帯雨林が山火事になってしまったわけです。ここはそもそも60年代から70年代にかけて森林の大伐採が行われて、その木材の多くが日本にまで輸出されていた。そういう地域です。結局その山火事は、森林の過剰な伐採によって、森林の中の湿度の状態が変わって、雨量も変わってしまった。それで乾燥が激しくなり、1年余り雨が降らない年が続いたところに火が入ったので燃えたとされています。
その後、順次国立公園ができているのですが、多くは山地です。このような高いところにある国立公園にはオランウータンは生息していないんです。オランウータンの生活する森は、海抜300メートル以下の低地熱帯雨林に限られているからです。マウンテンフォレストと呼ぶ高い山の森は、ベジテーション(植物、草木)がちょっと低いところの森とは違うんです。山地に国立公園がつくられるのは、高い山まで人は伐採に入らないから、国立公園に指定しておいてもいいだろうということなのです。
(続く)
鈴木 晃 (すずき あきら)氏のプロフィール
千葉県生まれ。京都大学大学院理学研究科修了。理学博士。京都大学霊長類研究所助手を経て、1983年からインドネシア・カリマンタン(ボルネオ)島のクタイ国立公園で野生のオランウータンの研究を続ける。長年にわたる研究活動の実績が認められ、93年には研究活動の拠点「キャンプ・カカップ」が現地に建設された。同年、「日本・インドネシア・オランウータン保護調査委員会」を両国の研究者らによって組織し、日本側代表に。引き続き現地住民らとも協力して森林保護活動や日本国内での啓発普及活動に取り組んでいる。2008年2月「オランウータンと熱帯雨林の会」設立、理事長に。著書に「夕陽を見つめるチンパンジー」(丸善ライブラリー)「オランウータンの不思議社会」(岩波ジュニア新書)など。