第22回北海道癌治療研究会学術講演会(2010年3月6日、同研究会主催)特別講演から
いかなるときにも希望を
1970年代、特に米国でがんという診断名が患者さんに伝えられるようになってから、サイコオンコロジー(精神腫瘍学)という学問が生まれました。がんが患者さんやご家族の心身に与える影響、人の心の問題に重きを置いてケアする医療の領域でもあります。
ほとんどの方は、がんと告げられると「何かの間違い」という否定したい気持、絶望感やショック状態に陥るといわれています。その後、食欲不振や不眠の症状が現れながらも、多くの方は数週間ほどたつと、つらい中で現実を直視していきます。きちんと治療選択ができるようになり、日常生活が再開されます。しかし、がんという命をおびやかす病は精神にさまざまなストレスをもたらします。
例えば、治療に伴う有害事象(副作用)による先々の不安、さらに再発や進行など厳しい状況に対する言いようのない心の痛み、葛藤(かっとう)。QOL(生活の質)が全般的に低下しますし、そのため適切な治療を受ける割合が下がることも研究されています。うつ病になった方々の生存期間について、複数の報告によると治療にかかわる重大な意思決定が経過に影響を与えている可能性も考えられます。また、がん患者さんの自殺率は一般人口の約2倍、根幹はうつ病だと知られています。
起こり得る主な精神症状を簡単に説明します。不安=不確実な脅威に直面した際に起きる漠然とした恐れの感情。抑うつ=喪失感を予期しているような強い悲しみの感情。適応障害=社会的、職業的、日常生活に著しい支障が生じている状態。うつ病=「気分が落ち込む」か「今までしていた物事に興味が持てなくなったこと」のどちらかが必ず該当し、全9項目のうち5項目以上が2週間以上続くとき。せん妄=身体の状態や薬剤などによる意識障害で認知機能ほか、すべての診断基準を満たした場合。(米国精神医学会の診断基準に準拠)
では医療現場でどれほど症状が把握されているでしょうか。米国で行われたがん患者さんの検証では、抑うつが重くなるほど担当医とナースのいずれにも見逃されやすいという結果でした。日常業務のケアでは中々見つかりにくく、一定の研修や戦略的なシステムの必要性が示されている報告といえます。
早期に対処できるように、いまわが国で最も優れていると考えられる簡便な方法は「つらさと支障の寒暖計」というものです。患者さんに気持ちのつらさとそれによって生活が支障を来している度合の2つを質問します。0から10までの段階でお答えいただき、数値により診断します。国立がんセンターのウェブサイトで閲覧できます。
治療については、適応障害、うつ病では精神療法と薬物療法の2つが柱です。精神療法ではコミュニケーションの質が問われ、カウンセリングに近い「支持的精神療法」が一般的です。まず、心の苦しみを話すことは決して恥ずかしいことではないと患者さんに分かってもらい、話を傾聴することが基本です。批判や審判をせずにあるがまま受け止める。多くの患者さんに接してきて、言葉の背景や意味、気がかり、つらさを理解しようとする努力、いつの時期でもそれが患者さんに伝わることが一番と思いました。
責任を持ってケアに当たるという意味のことを患者さんに伝えると、ホッとなさるようです。適切な情報の提供も患者さんの落ち込みや不安を和らげます。例えば、オピオイド(モルヒネ)を処方されると、もう終末期ではないかという誤解が非常に多いのです。
仮に、「私はもう駄目なのでしょうか?」と聞かれたとき、どんな風に言葉を返すのが支持的でしょうか。そんなこと言わないで、もっとがんばりましょうよ(激励型)、そんなこと心配しなくてもいいんですよ(説得型)、どうしてそんな気持ちになるのですか?(調査型)、これだけ痛みがあると、そんな気持ちにもなりますね(支持型)、もうだめなんだな−と、そんな気がするのですね(どちらかといえば支持型)、すみません、今忙しいので後で来ます(逃避型)。
答えに逡巡し、つい「頑張りましょう」とか言ってしまうようですが、患者さんは何を頑張ってよいのか分かりません。大切なことは事実を伝えることではなく、気持を察し、共感することと考えます。そして患者さんが死を受容することを目標としないようにすることです。人間の心はそれほど機械的ではないのです。
見通しの告知については医療者のなかでも議論されますが、患者さんの意向を知ることが重要です。多くの方は何カ月ということまで知りたくないのです、具体的に尋ねられない限り、あまりに詳細な情報は避けたほうがよいといわれています。真実を伝えることと希望を維持することのバランスを考慮すべきです。
心理的な原因が主で症状が軽ければ、支持的精神療法を継続するだけで、ずいぶん楽になる患者さんも多いようです。近ごろは高価な分子標的薬など経済的な問題も増えてきて、相談窓口の紹介や多面的なサポートが必要で、体制づくりもこの分野の課題です。入院患者さんには医師は短時間でも時々座ってお話すると安心感が違います。コミュニケーションは言葉だけではありません。
一方、薬物療法を要する状態は繊細な性格や一人暮らしのほか複数の要因が作用して起こると知られています。最も重大な危険因子は痛みです。大体4種類の薬剤を使い分け、中にはふらつきが出て慎重に投与する場合もありますが、不安で眠れない方や神経障害性の痛みの緩和にも対応できます。
うつについては、1985年以来、複数の臨床試験でがん患者さんに抗うつ薬の効果が示されています。いま大体20種類。抗うつ薬は数週間かけてやっと効果が出るという不思議なタイムラグがあり、むしろ副作用が先行するので、最初に十分説明して患者さんの不安を和らげます。抗がん剤やモルヒネの副作用の症状と重なるのが大きな問題で、複合的な薬剤戦略が望まれます。
また、集中力の低下や睡眠リズムの変調、あらゆる症状が出現し得るせん妄は医療事故につながりかねず、意思の疎通が難しい場合、ご家族とのかけがえのない時間が損なわれます。国際的にもマネジメントが重視されるようになり、ミニメンタルステートイグザミネーション(MMSE:認知機能検査)がよく使われています。そして抗精神病薬を用いて症状の緩和を図り、患者さんの身の周りの環境を改善します。ご家族には、身体疾患や薬剤が原因だと説明することが非常に大切です。
日本サイコオンコロジー学会のオンラインレクチャーに詳細がございます。また関連5学会・機構による厚生労働省の委託事業による医療者向けのeラーニングも整いつつあり、どなたでもアクセス可能です。
「痛みや心のつらさを軽減できますよ」と伝えるささやかなことも、患者さんにとっては希望につながるといろいろな文献に書かれています。終末期には患者さんの思いを尊重し、望まない情報は伝えない。どんなときにもさまざまな希望が存在すること、ご家族への配慮を心に銘じていたいものです。
(SciencePortal特派員 成田優美)
明智龍男(あけち たつお)氏のプロフィール
広島学院高校卒。1991年広島大学医学部医学科卒、広島大学医学部附属病院精神科、日本医科大学附属病院高度救命救急センター、社会保険広島市民病院精神科などを経て2000年国立がんセンター研究所支所精神腫瘍学研究部室長、04年名古屋市立大学大学院精神・認知・行動助教授、名古屋市立大学病院こころの医療センター緩和ケア部、07年から准教授、09年から緩和ケア部部長。医学博士。著書は「がんとこころのケア」 (NHKブックス)、訳書「不安と抑うつに対する問題解決療法」(金剛出版)