インタビュー

第4回「大規模コホートに向けて」(小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー)

2010.07.14

小泉英明 氏 / 日立製作所 役員待遇フェロー

「脳科学で教育を変える」

小泉英明 氏
小泉英明 氏

ゆとり教育からの脱却と評される小学校の新しい教科書が姿を表した。来年度から使われる。中には、これでゆとり教育が完成したのだと主張する人もいるが、ゆとり教育によってもたらされた基礎学力低下にようやく歯止めがかかる、と期待する向きが大方のようだ。なぜ、教育政策が揺れ動いてきたのだろう。脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、実際に意欲的な大規模研究プロジェクトを主導してきた小泉英明・日立製作所役員待遇フェローに意図はどこまで貫かれ、何が依然、未解明なままかを聞いた。

―「脳科学と教育」の大きな成果の一つは、コホート研究についての重要性に着目、実践したことかと思うのですが、実際には「脳科学と教育」プロジェクトだけでなく、並行して実施された計画型研究開発「日本における子どもの認知・行動発達に影響を与える要因の解明」にも途中から逆風が吹きましたね。特にコホート研究が批判の標的にされた感があります(注1)。なぜでしょう。

新しいことをやる際の常かもしれません。環境や医療の分野で、偏光ゼーマン原子吸光分析計やMRI(磁気共鳴描画装置)を開発したときも、同じようなことを経験しました。うまくいった後には、批判した人々も、もともと応援していたような話になるのですが(笑い)。

従来型のコホート研究(前方視的集団追跡研究)は、かつて英国が先鞭(せんべん)をつけました。以前、国立環境研究所の監事をしていたときにも、子どもたちのために環境問題をやるには、組織立ったコホート研究は欠かせないと提言してきました。けれども、お金も時間もかかることですし、研究組織自体や研究者に大きな負担がかかる研究ですから、子どもたちのことを本気で心配する人たちのほかは、なかなかやりたがりません。これまでは客観的な議論や政策の基礎となる定量的な調査データが日本には本当に少なかったのです。

今でこそ、環境問題でも二酸化炭素(CO2)による地球温暖化が常識化していますが、1970年代には「公害問題」というとらえ方しかありませんでした。現在でも、環境問題と言えば、物質環境が対象ですが、本当は人間環境も極めて重要です。子どもたちの脳は、物質環境だけでなく、人間環境すなわち社会環境によっても変容する可能性が大きいからです。だから、発達コホート研究によるアセスメントが早急に必要なのです。地球温暖化のように気づいた時には遅かったというのでは二の轍(てつ)を踏むことになります。文明が急速に進展し、効率化、情報化、都市化、核家族化、少子高齢化が進んだ現在、子どもたちの現状や変容についての科学的なアセスメントが必須です。

脳科学を関係させた発達コホート研究を、まず、科学技術振興機構が開始することを決めたのは、大英断だったと思います。そのころは、コホート研究自体を正しく理解する人々も少なく、実際、研究費を増額して研究期間を半減できないかという提案までありました。子どもの発達を扱うのですから、お金でもって子どもの成長期間を短縮できるはずはないのですが…。コホートとまで言わなくても、日本では学力調査についても、OECD(経済協力開発機構)のPISA(生徒の学習到達度調査)という国際的な調査結果などを利用してきたわけです。

例えば学習意欲を子どもたちにどうしたら持たせられるかということは日本にとって非常に重要な課題になっています。科学技術立国を標榜(ひょうぼう)していながら、科学に関する興味が日本の子どもたちは著しく低いことがOECDの調査で分かったからです。

2006年度の調査対象となったのは、世界57カ国の15歳の子どもたち40万人ですが、日本の子どもたちは科学に対する興味、熱意、意欲が際だって低下しています。世界最下位レベルであって、まだ、上位をなんとか維持している学力低下どころの話ではありません。このように深刻な問題の対策を考えるにしても、まず神経科学的な基礎データが必要になります。今回、渡辺恭良・理化学研究所分子イメージング科学研究センター長のグループが、まさにパイオニアとして意欲的な研究を行いました。こうした研究はほとんどやられていませんから学術的にしっかり積み上げられたことは大変意義の大きな仕事だったと考えています。大規模コホート研究と連携してさらに研究を大きく進める目論見は、途中で計画変更があり、一部実施できなかったのが残念ですが。

―教育論議は盛んでも、基礎となるデータをとることはそれまで外国任せだった、ということですね。

実際にコホート研究は、大変な労力を要します。欧州では公共性の高いものを重視する気風がありますが、日本ではこれまでなかなか大規模なものはできませんでした。社会にとって重要と分かっていても、結果の得やすい効率のよいものを先に、となって後回しになってしまうからです。

今回、大阪、三重、鳥取の3府県で乳幼児約400人を対象に「相手の気持ちが分かる」「相手の立場に立てる」「良好なコミュニケーションをとり、円滑に社会生活を送ることができる」といった社会能力やその前駆的要素(プリカーサー)をどのように獲得するかを、生後4カ月の乳幼児から成長に沿って約3年間にわたって、一人一人を丁寧に追跡調査しました。コホート調査の人数というのは、正確には開始当初の数ではなくて、最後まで残った数をいうのですから実際には大変です。

世界でも初めての試みは、環境を厳密にそろえた地域ごとの観察室を作って、そこで専門家による行動観察を続けたことです。こちらは「脳科学と教育」と並行して実施した計画型研究開発「日本における子どもの認知・行動発達に影響を与える要因の解明」の一環として行いました(大阪研究グループリーダー:富和清隆・京都大学教授、三重研究グループリーダー:山本初実・三重健康医療センター部長、鳥取研究グループリーダー:小枝達也・鳥取大学教授)。

調査対象となった3地域で、科学技術振興機構と私たち研究チームの代表は、まずそこの首長さんにその重要性を説明してご理解をちょうだいし、話をきちんと下ろしてもらうことから始めたわけです。それに教育長の理解が必要ですし、保健所長や医師会長の協力あるいは許可、さらにはPTAや教職員組合の理解を得ることが必要になります。現場で協力してくださる方と非常によい関係を保たないと何年間もかかる研究はとてもできません。これ以外にも、いくつものコホート研究を実施した「脳科学と社会」研究開発領域の研究者の方々は、皆さん、難しい仕事を本当によくやってくださったと思います。一つ欠けても最終的な成果に至らないわけですから、先生方の実力には敬服しています。特に、途中から計画型コホート研究の研究統括を務めてくださった山縣然太朗先生(山梨大学教授、疫学)の指導力には心から感謝しています。

―何年もの期間を要する大規模コホート研究を進めるには相応の覚悟と費用が必要なことは評価する側も理解できたのではないか、と思いますが。実際には当初予定していた大規模コホートは結局、始められなかったのですね。

コホート研究というのは実際にやってみないとその難しさは実感できません。計画段階で詰めておくべきことをきちんとしないと後で得られたデータの価値がふいになってしまいます。未来の子どもたちのためにはこうした息の長い研究が重要だという信念を持った人たちがやらないと、途中で空中分解してしまう危険が大きいのです。ですから準備段階から相当な時間が掛かります。今回、残念だったのは準備段階、つまり短期パイロット研究のデータがまだ出ていない時点で評価が行われたことです。

パイロット研究初期の時点で、本来、長期計画の評価はできません。多くの最先端の科学研究では、まず新しい実験装置を作ります。それを用いて新しい実験をして結果を出して行くわけです。このコホートの準備期間というのは、実施できる組織作りと解明すべき最終目標を明らかにするもので、言わば新しい実験装置を作る段階に相当します。脳科学を取り入れていない従来型の発達コホート研究でも、数少ない成功例はNIH(米国立衛生研究所)のNICHD(米国立小児保健発育研究所)が実施した千人規模のものですが、これは準備期間が何度も延長されて、結局4年間の準備の後にやっとスタートしました。今回、準備期間延長に固執せずに、規模を縮小して手堅くまとめる方向に走ったことについては、自分自身、じくじたる思いがあります。

さらに背景としては、社会技術研究開発センター(注2)のあり方についての方針転換が挙げられます。当初のNIH型の機関にするという考え方が途中で変わりました。NIHというのはよく知られているように、医学・生物学分野における米国最大のファンディング(研究助成)機関であり、かつ最大規模の研究実施機関でもあります。センター前身の社会技術研究システムがもともと、日本原子力研究所という研究実施機関と共同で作られたこともあって、当初はNIHのように研究開発機能も併せ持つ機関にしようという考え方があったのですが、途中から、競争的資金に重点化して研究助成中心で行くことになりました。しかし、長期の大型コホートの研究拠点として機能するには、研究助成のみでは困難です。

前に触れた2003年に文部科学省が公表した「『脳科学と教育』研究の推進方策について」でも、「脳科学と教育」研究を専門に行う研究機関あるいは組織の設立が必要とされています。さまざまな環境要因が脳に与える影響を調べるには一定数の対象者を長期的に追跡調査する縦断的(コホート)研究が重要であることと、そのためには、周産期医療機関との連携、乳幼児健診の活用、大学とその付属小中高校、自治体との連携など、研究体制の構築が必要であることも指摘されています。実際、欧州ではコホート研究を専門に実施する恒久的な機関が種々できているのです。

―長期コホート研究ができなかったということは、これまで得られたデータもあまり活用できないということになるのですか。

そういうことはありません。コホート研究は長ければ長いほど効果が出てくるものですが、今回は短期のものでも種々の貴重なデータが得られました。幸いこれまで得られたデータを、さらに整理する予算が少しついたので、少なくも2年間はデータの保存が可能になりました。

一方、2010年度から環境省が厚生労働省と文部科学省とも連携し、子どもの健康と環境に関する影響調査(エコチル調査)をスタートさせます。化学物質をはじめとする環境因子が、胎児期を含め子どもの発達にどのような影響を与えているかを突き止め、子どもたちが育つ健やかな環境をつくり出すことが狙いです。全国15カ所にユニットセンターを設け、10万人の妊婦を公募し、妊娠中の母親と生まれた子どもの心身の状態を、胎児のときから13歳まで周囲の環境要因とともに追跡調査します。2025年には調査データから子どもの成長に影響を与える環境要因を解明することを目指す中間取りまとめを、という極めて大規模なコホート研究です。

15カ所のユニットセンターは大学や研究機関の環境保護部門を中心に産婦人科、小児科などの協力を得て、さらに地域の医療機関にも協力してもらうとのことです。地方自治体との連携も不可欠で、われわれの経験とともに、得られたデータも活かされると思っております。実際に山縣然太朗・研究統括が、「エコチル調査に関する検討会」のメンバーにも入っていますし、さらにワーキンググループの基本設計班メンバーやリスク管理・コミュニケーション班の班長を務めています。また、鳥取研究グループをまとめた小枝達也グループリーダー(鳥取大学地域学部 教授)も、エコチル調査の基本設計班のメンバーです。従って「すくすくコホート」のさまざまな経験も、そちらに移管されつつあると思います。

  • (注1)
    これらの研究開発の実施機関となった科学技術振興機構 社会技術研究開発センターは2006年、外部の有識者を中心とした評価委員会(委員長・生駒俊明・東京大学名誉教授)による中間評価を実施した。当初の目標だった大規模長期コホート研究については、開始以前にさらなる準備が必要であることを指摘した。当時、社会技術研究開発センターは、研究実施機関としての機能を終息させ、研究助成機関へとシフトしつつあったことが重なり、この評価委員会の指摘を受けて大規模コホート研究については大幅な方針変更(計画型研究の規模・期間を縮小)を決めた。一方、評価委員会の専門委員会(委員長:甘利俊一・理研脳科学総合研究センター所長(当時))は大規模コホート研究の重要性を強く指摘した。
  • (注2)
    社会技術研究実施のため日本原子力研究所と科学技術振興事業団(当時)に設けられた「社会技術研究システム」が前身。その後、科学技術振興事業団の事業として一体的に進められるようになり、2005年7月に「社会技術研究開発センター」に改組となると同時に、研究助成機関の色彩を濃くした。

(続く)

小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)
小泉英明 氏
(こいずみ ひであき)

小泉英明(こいずみ ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒、1971年東京大学教養学部基礎科学科卆、日立製作所入社。計測器事業部統括主任技師、中央研究所主管研究員、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年から現職。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出(1975年)したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置(1985年)、MRA(磁気共鳴血管撮像)法(1985年)、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置(1992年)、近赤外光トポグラフィ法(1995年)など脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域総括。02年度から経済協力開発機構(OECD)「学習科学と脳研究」 国際諮問委員。国際心・脳・教育学会(IMBES)創立理事、MBE誌創刊副編集長。著書に「脳は出会いで育つ:『脳科学と教育』入門」(青灯社)、「脳図鑑21:育つ・学ぶ・癒す」(編著、工作舎)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)など。

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