インタビュー

第6回「困っている人のために」(押田茂實 氏 / 日本大学医学部(研究所) 教授)

2010.06.16

押田茂實 氏 / 日本大学医学部(研究所) 教授

「法医学の役割-安全で冤罪許さない社会目指し」

押田茂實 氏

誤りだったDNA鑑定で、無実の菅家利和さんが長年、殺人犯の汚名を着せられ、自由を奪われていた足利事件が投げかけた問題は大きい。信頼性のないDNA鑑定を信じ込み、後から出された正確なDNA鑑定の意味をなかなか理解しようとしなかった裁判官の科学リテラシーに問題はないのだろうか。科学的な捜査、裁判に大きな役割を果たす法医学は司法の世界で十分、尊重されているのだろうか。長年、法医学の第一線で活躍、菅家さんに対するDNA鑑定の誤りを最初に指摘し、再審、無罪確定への道を開いた押田 茂實・日本大学医学部(研究所) 教授に、法医学の現状と司法界の問題点などを聴いた。

―今度出された「法医学現場の真相」でも、法医学教室の苦境を改善するため法医解剖に対する謝金を上げてほしいと頼んだ時(1979年)、警察庁幹部にけんもほろろな対応をされたことに触れられていますね。法医学の置かれている状況を端的に示しているように感じましたが。

例えば英国では、法医学者がこうと言ったら盾突く人はいないのです。女王陛下の代わりに正義を言っているというところがあります。ところが、日本の場合はそう思われないのです。警察、検察の側には、犯人を捕まえるときの自分なりのストーリーがあって、それに合う鑑定をしてくれる法医学者が良い先生と思っているのです。

私は、死刑判決が出たままの袴田事件(注)などにも長期間、おかしいと意見書を提出していますが、それは真実を極めるために言っているのです。しかし、それが理解されないのです。司法というのはまさに正義と真実を何より大切にしなくてはいけないのに、科学的精神が足りないということです。

裁判というのは、出てきた証拠で白か黒かを決めているのです。自然科学や医学の世界では、白か黒かがはっきり分かるというのはほんの一部なのです。生きている患者さんを仮に解剖してみればいろいろ分かりますが、生きている人を解剖などできません。白ではない、黒でもない、灰色の濃い事例か、それとも薄い方の灰色かなどと考え、そのために血液を採って調べたり、レントゲンを撮ったりと手を尽くすのが医学なのです。だから、すべての患者さんを治すなどということはできません。日本では年間に100万人以上の人が死亡しているのです。そういうことすら、司法界の多くの人たちは分かっていないのです。

―警察官、検察官、裁判官などに法医学の重要性が理解されていないようでは、まして普通の人々がよく分からなくても怒れませんね。

「押田先生は警察の味方ですか」と、よく人に言われます。警察に嘱託されて被害者を司法解剖する仕事を40年間しており、警察庁長官から協力章を受章しています。亡くなった被害者はいくらしゃべりたくても話せません。しかし、何を言いたいかは、死体が表しています。「あなたの悔しさはこうで、犯人を捕まえてほしいでしょう」。その遺体を解剖し、検査することによって、こう言ってあげることこそ、われわれ法医学者の仕事です。殺された人を放ってはおけない。たとえ警察が勘弁したって、われわれは許さないぞ、という心意気はあります。

医学部の定員が少ないことにようやく社会の関心が向き、基礎医学を目指す医師が少ないことも問題になっています。しかし、実力のある後輩が十分育っていない法医学分野はもっと悲惨です。残念ながら前にも話しましたように九州大学をはじめ中核となる医学部の出身者で法医学をやろうと考えている人はほとんどいません。慶應義塾大学の卒業生で法医学教授はゼロです。東京大学の法医学教授は愛媛大学出身者、京都大学は浜松医科大学出身者、九州大学は山形大学の卒業生が教授になっています。私が在籍した東北大学と日本大学の出身者が後進の育成に努めてきた結果、国内80大学の法医学教室教授のうち10数人をこの両大学出身者で占めているというのが実態です。

―それも役割が正当に評価されていないことの反映でしょうか。

もちろん、そうです。ドイツや英国で私と同じような立場の法医学者は立派な邸宅に住み、年間所得は大体1億円を超えています。私は法学部でも25年くらい教えていますが、時給1,000円でした。学生が1,000人いますから、一人あたり1円でしかありません。これが現実ですから、東京大学や京都大学の医学部に入ったら法医学に進むことなど、親がまず許さないでしょう。医学部に入るまでに塾へ行くなどお金をかけているでしょうから、お金を回収できる臨床に進め、となります。今の教育のあり方からするとそうならざるを得ないと思います。

―核家族化、都市化の進展などで凶悪事件が起きたときの聞き込み捜査も難しくなる一方でしょうし、大量生産、大量消費の時代に遺留品から犯人にたどり着くのもますます難しくなっているように見えます。自分や身近な人が被害者になったことを想像し、「安全、安心な社会を」というなら法医学に対する評価はおかしいとしか思えませんが。

私が前に書いた本を読んだ人の中から、実は何人か法医学者が生まれています。私の師匠である赤石英先生の書いた本(「法医学は考える」)を読んで法医学の道を選んだ人もいます。「法医学現場の真相」の前書きとあとがきにも、お金にはならないけれど困っている人のために育ってほしい、と書きました。大学生になってからでは遅い。中学生、高校生に読んでほしいのです。

実は最近、驚くようなことがありました。法学部の講堂に行くと、10歳の子どもがいたのです。「どうしたのか」と聞いたら、その子の兄さんがいて「弟が将来医学部に入りたいというから連れてきた」というのです。その兄さんは昨年、私の講義を聴いていたのです。

「静かに聴いているならよい」と許しましたら一生懸命ノートを取っていました。私も18歳の時に法医学の本を読んで感動したのが、この道に進むきっかけでした。私の講義を聴きに来てくれたような子がもっとたくさん出てきてほしいものです。

  • (注)袴田事件
    1966年静岡県清水市(現・静岡市清水区)で1家4人が惨殺された強盗殺人放火事件。袴田巌死刑囚に対する過酷な調べがあった疑いが濃いほか、いくつかの問題点を指摘されながら最高裁で死刑が確定、最初の再審請求も棄却されている。押田 氏は、凶器とされたクリ小刀では被害者の一人である次女に残された刺創を生じるのは不可能という検査報告書を弁護団からの依頼によりまとめ提出したが、裁判所は認めていない。1審の死刑判決に加わった陪席判事の一人が、自分は無罪を主張したが担当裁判官3人の多数決で死刑判決が出されたことを2007年になって暴露するなど、冤罪が疑われる事件の中でも特異な事件となっている。この元裁判官からの視点で描かれた映画「BOX 袴田事件 命とは」(高橋伴明監督)が現在公開中。

(完)

押田茂實 氏
(おしだ しげみ)
押田茂實 氏
(おしだ しげみ)

押田茂實(おしだ しげみ) 氏のプロフィール
埼玉県立熊谷高校卒、1967年東北大学医学部卒、68年同大学医学部助手、78年同医学部助教授、85年日本大学医学部教授(法医学)、2007年日本大学医学部次長、08年から現職。数多くの犯罪事件にかかわる法医解剖、DNA型鑑定、薬毒物分析のほか、日航機御巣鷹山墜落事故、中華航空機墜落事故、阪神・淡路大震災など大事故・大災害現場での遺体身元確認作業などで重要な役割を果たす。編著書に「Q&A見てわかるDNA型鑑定(DVD付)(GENJIN刑事弁護シリーズ13)」(押田茂實・岡部保男編著、現代人文社)、「法医学現場の真相-今だから語れる『事件・事故』の裏側」(祥伝社新書)、「医療事故:知っておきたい実情と問題点」(祥伝社新書)など。医療事故の解析もライフワークとしており、「実例に学ぶ-医療事故」(ビデオパックニッポン)などのビデオシリーズやDVDもある。

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