インタビュー

想像力は、社会だって変えられる−松田美佐さん《人社連続インタビュー》

2022.05.12

 自然科学と人文・社会科学の知の融合(=総合知)による社会課題解決や新たな社会設計への期待を受けた、人文・社会科学系有識者への連続インタビュー企画。

 2人目は、「うわさとは何か」(中公新書、2014年)の著者で、コミュニケーションやメディアを研究する社会学者の松田美佐さん(中央大学文学部教授)。テクノロジーの進化によってメディアは多様化し、社会に流れる情報量も増え続ける中で、私たちに求められることは何か。松田さんは、想像力が社会を変えると語ってくれた。

インタビューは3月末で閉館した松田さん馴染みのホテルラウンジで行われた
インタビューは3月末で閉館した松田さん馴染みのホテルラウンジで行われた

今はコミュニケーション過剰な時代

-松田さんはコミュニケーションの専門家として、その変化を長年見つめて来られました。一言でいうと、今はどんな時代でしょうか。

 コミュニケーションの専門家として変な言い方ですが、「コミュニケーションが重要だ」と言い過ぎているように思います。産業構造としてサービス業が非常に多くなり、人と人が交渉するような仕事が増えているから、重要だということになる。就職活動でも必ずといって良いほど求められるので、若者にとってはしんどい時代だと思います。

 「コミュ障」とか「ぼっち」という言葉がネガティブな文脈で使われていますが、むしろ問題は「ぼっち」が問題となる社会そのものでしょう。個人の問題として扱うのではなく、強制がはたらかない社会システムや常識がつくられていかないといけません。

-どうすれば解決に向かっていくとお考えですか。

 価値観の問題なので、簡単ではないですよ。1966年に発表された童謡「一年生になったら」に「ともだち100人できるかな」という有名なフレーズがありますよね。「ともだちはたくさんいた方が良い」といった社会のムードも手伝って浸透したと思うのですが、ある意味では価値観の押し付けだったといえます。

 ただ、最近の研究では、ともだちの数は多くなくてもいいと答える若い子の割合が増えてきました。多ければ多い方が良いと答える数は、どんどん減ってきています。人それぞれで良いと、これからも言い続けていくしかないでしょう。

-ポケットベルが流行した時代から「メディア」も研究対象とされています。近年のメディアと人間の関係をどのように捉えていらっしゃいますか。

 若者の使うツールは常に変化していて、個別化が進んでいます。1970~80年代のように、マスメディアを通じてみんながひとつのものを楽しんでいた時代とは大きく変わりました。

松田さんの代表作「うわさとは何か」。うわさを「最も古いメディア」と評する
松田さんの代表作「うわさとは何か」。うわさを「最も古いメディア」と評する

人々がつながる機会は増えたが…

 近代以前だったら、知り合う人は生まれ育った「場所」に規定されていて、人間関係はそんなに広がりませんでした。しかし今の子たちは、個別化した興味関心を通じて人間関係を選択できます。ツールが変わったことで、日常では出会わない人とも。ただ結局、興味関心は、それまでの経験や、家族・友達関係に起因するわけです。

 むしろ個別化が進んでいくなかで、興味関心に影響を与えるような人間関係が十分に得られないことが非常に問題になってきています。

松田さんたちのグループでは、東京都杉並区と愛媛県松山市在住の20歳の若者を対象に5年おきに定点調査を実施。ネット利用の影響もあってか、若者文化や日常生活が均質化する一方で、海外経験や語学学習など教育面での地域差があることにも注目している
松田さんたちのグループでは、東京都杉並区と愛媛県松山市在住の20歳の若者を対象に5年おきに定点調査を実施。ネット利用の影響もあってか、若者文化や日常生活が均質化する一方で、海外経験や語学学習など教育面での地域差があることにも注目している

-社会のオンライン化が進み、人々がつながる機会自体は増えたようにも思います。

 ポケベルやケータイ、スマートフォンへの依存は思春期が多いんです。自己が成熟し切っておらず、友人関係の不安をコミュニケーションで保とうとするためです。いつでもどこでもオンラインでつながれるようになって便利な一方で、つながりたくない場面に巻き込まれることも増えました。明らかにコミュニケーション過剰です。

 ぼっちの解決に、テクノロジーでネット上に居場所をつくることも大事だとは思いますよ。ただ、技術だけをベースに「こういうことができる」といった思考では、どうしても過剰になりがちです。「何のために」どういうシステムが必要なのかを起点に、過剰にならないよう引き留める側の視点も持った議論が大切でしょう。

「何のために」を考えるには文理を問わない素養が必要

-「何のために」を考えるには、何が必要でしょうか。

 文理を問わず、ベースとなる素養が必要でしょう。専門性を高めていくと、得意なところには対応できるかもしれません。けれども、もっと広い、いまだ問題設定できていない部分にある「何か」にはどうしても気が付きにくくなる。いったん専門性の高い分野に入り込んでしまったら、後から幅広い知識を身に付けるのは難しくなりがちですので、できるだけ早い段階で両方を身に付けられるといいですね。

じっくりと思案してからゆっくりと言葉を紡ぎ出す姿がとても印象的だった松田さん
じっくりと思案してからゆっくりと言葉を紡ぎ出す姿がとても印象的だった松田さん

-ベースとなる素養を培う上で、何が課題になっているとお考えですか。

 日本の場合、理系と文系に分かれるのがあまりにも早過ぎる点です。早ければ高校入試の段階で、その傾向が出てくる。文系の場合、高校に入っても数学を学ぶのは1年のときのみというケースもあり、数学が苦手になるものわかります。

 逆に理系を選んだ子たちは、歴史などを学ぶ機会が十分ではないでしょう。分析やシステムが得意になって、将来歴史資料を分析することになっても、歴史に関する最低限の素養がないと「何のために」を深く考えることは難しいはずです。そういうベーシックな知識を高校まで、あるいは大学の教養課程まで、理系・文系関係なく学ぶ環境が必要なのではないかと思います。

社会科学がもたらす評価と「当たり前」

-「ベースになる部分」を持つために、何が必要でしょうか。

 役に立たないことに取り組める余裕がもっとあったらいいと思います。無駄は絶対に出てきてしまうもの。私の研究でも、想定とは違う結果が出ることも珍しくありません。

 でも、今は役に立つことばかりが求められていて、非常に短期間で成果が求められる。特に今の若い世代の人たちは任期制雇用が多く、数年のうちに結果を出さなきゃと、ものすごくプレッシャーを感じています。研究も同様で、大学に求められているビジネスの論理が強まり過ぎている。

 そもそも、社会の法則を見いだす社会科学がわかりやすく、すぐに役に立つことは多くありません。例えば社会を不安にするデマなどの問題があったときには、対応策をいくつか提示できます。しかし、そこに至るまでには、普段からいろいろな調査をし、考察をした上で、当たり前にもみえる見解にたどり着く、気の長い営みなんです。

「自立的な社会に向けて社会科学の視点はヒントになる」と力を込める松田さん
「自立的な社会に向けて社会科学の視点はヒントになる」と力を込める松田さん

-社会科学は社会に何をもたらすものだと思いますか。

 1つは評価ですね。社会には受け入れられるものとそうでないものがある。例えば、どんなテクノロジーが失敗して、それがなぜだったのかは、社会科学が評価するので、科学技術は良心をもってある程度自由に突き進んでくれればと思っています。

 もう1つは、人間と社会に関する知識と想像力ですね。想像力とは、言い換えれば今後の社会設計や個人の生き方を考えていく力。「Aもあれば、Bもあり得る」とイメージできることであって、「未来社会はこうなる」という予想をする力ではありません。

 学生にはよく「社会科学は自分の『当たり前』が当たり前じゃない世界を想像する学問だよ」と話しています。自分の「当たり前」がわかった上で、それがもし当たり前じゃなかったらどんな可能性があり得るのか、まずは想像をしてみる。

 想像力には、物事を変えていく可能性がある。SNSの設計だって、社会の制度だって、変えられるんです。そういった視点をもって社会のバランスをとっていくのが、社会科学の役割だと思っています。

松田美佐(Matsuda Misa)

1968年兵庫県生まれ。91年東京大学文学部社会心理学専修課程卒業。96年同大大学院人文社会系研究科社会文化研究専攻社会情報学専門分野博士課程満期退学。同大社会情報研究所助手などを経て、2003年中央大学文学部助教授。08年より現職。著書は「うわさとは何か」、「ケータイの2000年代」(共編著、東京大学出版会、2014年)ほか

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