2025年の大阪・関西万博を前に、世界に先駆けた新しい技術が関西から次々と登場している。2020年5月に始まった「BNCT(ホウ素中性子捕捉療法)」と呼ばれる、新しいがん治療もその一つだ。「第5のがん治療」として期待されるBNCTの実用化に貢献した、大阪府立大学BNCT研究センター教授の切畑光統さんとステラファーマ会長の浅野智之さんに、開発の経緯を聞いた。
患者の負担が少ないがん治療法
現在医療現場で行われているがん治療には、手術(外科治療)・抗がん剤などの薬物療法・放射線治療・免疫療法の4つの方法がある。どの方法を選択するかは、がんの種類や進行度、患者の状態などを考慮して決められるが、医療現場では常に、より効果的で患者への負担の少ないがん治療法が求められている。
そんな中、がん治療の選択肢を広げる「第5のがん治療」として注目されているのがBNCTだ。BNCTはホウ素薬剤を投与し中性子を照射することでがんを治療する。体を傷つけることなく、基本的に「1回(1日)」で治療でき、他のがん治療法と比べて患者への負担が少ない。この特長は、BNCTのメカニズムによるものだ。
がん細胞を死滅させる仕組み
BNCTとは、”Boron Neutron Capture Therapy(ホウ素中性子捕捉療法)”の略称。その名前が示す通り、BNCTでは、ホウ素と中性子の2つの粒子が「主役」だ。BNCTの治療では、まず、がん患者に、ホウ素の同位体(ボロン10)の化合物からなるホウ素医薬品を投与する。この化合物はがん細胞に選択的に取り込まれる性質を持つ。その後、患部に弱い中性子線を照射すると、がん細胞内のボロン10にぶつかり核分裂を起こし、放射線(アルファ粒子とリチウム核)を発生する。この放射線が、がん細胞内のDNAやミトコンドリアを破壊し、がん細胞を「死滅」させる。細胞の大きさは約20マイクロメートルとすると、発生する放射線は10マイクロメートル程度しか飛ばないため、がん細胞をピンポイントで破壊することができるわけだ。
「がん組織の中では、がん細胞だけが塊になっているのではなく、がん細胞と正常な細胞が入り乱れて存在しています。BNCTは、『がん細胞選択的治療』と呼ばれるとおり、がん細胞を死滅させ、正常な細胞への影響を最小限にできます」と切畑さんはBNCTの特長を説明する。
ホウ素医薬品開発の始まり
BNCTで使うホウ素医薬品の開発は切畑さんと浅野さんの出会いから始まった。
大阪府を拠点とする化学メーカー、ステラケミファは、1990年代の終わり頃、独自のボロン10濃縮技術を開発し、原子力発電用の中性子吸収剤として販売を開始。さらにボロン10の利用先を開拓すべく、その任務を任されたのが、当時、同社の研究所にいた浅野さんだ。
「ボロン10の濃縮工場は(大阪府)泉大津市にあるのですが、すぐ近くの熊取市に京大の原子炉実験所があったので、そこでボロン10を使ってもらえるかもしれないと思って行ってみたんです」
浅野さんは、そこで、ボロン10がBNCTの研究に使われていることを知る。
「BNCTのホウ素薬は、うちの会社のすぐ近くにある、大阪府立大学の切畑先生という人が開発していると知り、すぐに切畑先生の研究室に飛んでいきました。」
浅野さんの突然の訪問に、切畑さんはとても驚いたという。大学のすぐ近くに入手が難しいボロン10の濃縮工場があることなど、夢にも思っていなかったからだ。切畑さんはそれまで、アメリカの企業からボロン10を輸入していたが、納期は遅く、高価なため、研究を進めるのに苦労していた。
「浅野さんに『ボロン10をどれくらい作っているのですか』と聞くと、『トン単位の生産プラントを持っています』と言うのでさらに驚きました。それまでは数十グラムずつ輸入していましたから」と切畑さん。「切畑先生に『10グラムほど分けてもらえますか』と言われたのですが、『多いかもしれませんが1キログラム持ってきます』って答えました」と浅野さんは当時のことを振り返る。
ステラファーマ独立
その約半年後にはBNCT開発を目指す産学連携組織も発足し、浅野さんは、BNCTホウ素医薬品の開発に着手する。そして、BNCTが徐々に認知され、ホウ素医薬品開発の道筋も見え始めた頃、京都大学と研究開発を進めていた住友重機械工業が、病院併設型の中性子発生装置開発に本格的に取り組み始めたことを知る。サイクロトロン型の小型加速器で、これが完成すれば一般の病院にもBNCTを導入することができる。
浅野さんは「あれは私たちにとっても大きな『ブレークスルー』でした」と言う。そこで、BNCTホウ素医薬品開発に注力するために、親会社のステラケミファから独立したのが、ステラファーマだ。
人のため、社会のための医薬品開発
このようにしてBNCTホウ素医薬品の開発は始まったが、当時は、BNCTはおろか、がん治療にホウ素を使った医薬品の先例がない状況。厚生労働省や、その下で医薬品や医療機器の承認審査を担当する「医薬品医療機器総合機構(PMDA)」と議論を重ねながら、「一からすべて」検証していく必要があったという。「例えば抗がん剤の開発なら、過去に大手製薬会社がやったことを参考にできますが、BNCTの場合はまったく先例がありませんでしたから、治験は徹底的にやる必要がありました」と浅野さんは当時の苦労を振り返る。
一般に、ひとつの抗がん剤を開発するには、数百億円から1000億円かかるといわれる。先例のないBNCTホウ素医薬品開発は、さらにコストがかさむ恐れもあった。初めて製薬に参入する、従業員数十人の中小企業にとって、とてつもなくリスクの大きい事業だ。開発をいつ断念しても不思議ではない状況の中、さまざまな施策にも助けられ、通常12カ月かかる承認審査を6カ月で通過することができた。
もうひとつ、開発を続ける中で大きな支えになったのは、親会社であるステラケミファの当時の会長、深田純子さんが背中を押してくれたことだ。「世のため人のためにやれば、結局それが会社の利益につながる」という深田さんの考えは開発の支えとなり、「がんで苦しむ人を救いたい。人のため、社会のために開発する」という気持ちがより一層強くなったと2人は言う。
がんと闘う人たちの新しい光に
このように、産学官の協力者からさまざまな後押しを受けながら、切畑さんと浅野さんは、BNCTの実現という大きな目標に向かって着実に開発を進めていった。そして、ついに2020年3月、BNCTホウ素医薬品は、サイクロン型加速器とともに、頭頸部(とうけいぶ:顔や口、鼻、喉などの部位)がんを対象とした薬事承認を取得、同年5月には健康保険も適用され、福島県の南東北BNCT研究センターと、大阪府高槻市にある大阪医科薬科大学関西BNCT共同医療センターの2カ所で、一般の患者へのBNCT治療が始まった。両センターには全国から照会があり、治療数も着実に増えている。
「次は、治療対象を脳腫瘍などにも広げるとともに、BNCTが受けられる医療機関も増やしていきたいですね」と、浅野さんはBNCTのさらなる拡大に注力する。切畑さんは「今はまだ1種類の薬しかありませんが、将来は、個人個人の特性に応じたホウ素薬剤を作る『テーラーメイド医療』を実現したい」と、さらに先を目指した研究を進めている。
「治療ができずにあきらめていた人に希望を与え、一人でも多くの人を救いたい。BNCTを、がんと闘う人々にとって新しい光にしたい」。その強い思いを胸に、切畑さんと浅野さんの挑戦はこれからも続く。
切畑 光統(きりはた・みつのり)
大阪府立大学BNCT研究特認教授(センター長)。大阪府立大学農学博士。同大大学院教授(農学生命科学研究科・生命環境科学研究科)を経て2012 年定年退職後、21 世紀科学研究機構、研究推進機構の特認教授として現職を務める。
浅野 智之(あさの・ともゆき)
ステラファーマ会長。関西大学大学院応用化学研究課程修了。1996年橋本化成(現ステラケミファ)に入社。研究開発業務に従事した後、2007年にステラファーマを設立。12年同社代表取締役社長、2020年6月から現職。