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日本人がん患者の遺伝子変異の全体像判明 国立がん研が初の5万人ゲノム異常解析

2024.03.25

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト

 国立がん研究センター研究所は欧米人などと異なる日本人のがん遺伝子変異の全体像が明らかになったと2月29日に発表した。「がん遺伝子パネル検査」で得られた約5万人の患者のデータを活用し、遺伝子の変異を解析。がん治療薬の標的となる変異があった割合は平均で約15%だったという。遺伝子変異などを明らかにして治療効果が高いと見込める薬を選んで治療する「がんゲノム医療」に貴重なデータを与える成果で、国立がん研は今後も解析を続けて治療成績の向上につなげたいとしている。

国立がん研究センター研究所の建物(東京都中央区築地、国立がん研究センター提供)

一人一人に合った治療法見つけるゲノム医療

 人間の体には約37兆個もの細胞がある。細胞内の核には遺伝子を乗せた染色体が入っている。染色体に含まれる遺伝子と遺伝子情報の総体がゲノムだ。1人のゲノムには2万~3万種類の遺伝子が存在し、遺伝子ごとに体をつくるさまざまな「指令機能」がある。

 ゲノムには両親から受け継いだ62億個の塩基が並んでいて、一部の塩基配列が異なることで一人一人の個性が決まる。その個性には外見や性格などのほかに、病気になりやすさや薬の効き方、副作用なども含まれる。この違いを医療に活用するのがゲノム医療で、がん治療に活用されている。

 がんゲノム医療の効果の決め手となるのががん遺伝子パネル検査だ。生検や手術などで採取した組織を高速で大量のゲノムの情報を読み取る「次世代シークエンサー」装置では数十から数百もの遺伝子を同時に調べることが可能。2019年に保険適用されたことから一気に普及した。遺伝子の変異、変化を調べて患者のがんの特徴が分かればその患者に適した治療法を決めることができる。患者側からすると「自分の遺伝子変化を狙う薬」、つまり「分子標的薬」を見つけることにつながる。

 ここで注意しなければならないのは遺伝子が直接がん組織をつくるのではないことだ。がんは、遺伝子がさまざまな原因で正常に機能しなくなって起きる病気だ。ごく一部の、生まれつき遺伝子が変異している「家族性腫瘍」を除き、ほとんどのがん細胞は生活習慣や喫煙、加齢などが原因で特定の体細胞の遺伝子が後天的に変異することで発生する。こうしたがん細胞にだけできた遺伝子変異は次の世代に遺伝することはない。

 現在、この検査は「がんゲノム医療中核拠点病院」や「がんゲノム医療拠点病院」「がんゲノム医療連携病院」などで行われている。検査結果は患者の同意を得た上で国立がん研究センターの「がんゲノム情報管理センター」に集められている。対象は標準治療をしても十分な効果が得られなかったがんや、標準治療のない希少がん、原発不明がんの患者に限定されている。ただ、検査でがんと関係のない遺伝子変異が見つかることもあり、遺伝に関する十分な説明や相談に適切に対応する病院の受け皿が重要になる。

がんゲノム医療とがん遺伝子パネル検査の全体像(国立がん研究センター提供)
患者に対する医師のがん遺伝子パネル検査の説明のイメージ図(国立がん研究センター・がんゲノム情報管理センター提供)

がんの種類で大きな差

 国立がん研究センター研究所によると、研究チームは2019年6月~23年8月の間、がんゲノム情報管理センターに集まった4万8627例を解析した。がんの部位では大腸、膵臓(すいぞう)、胆道などが多く含まれていた。

 解析の結果、治療薬の標的となる遺伝子変異があったのは全体の15.3%だった。26のがん種類別では甲状腺がんが85.3%で最も高く、以下乳がん60.1%、肺腺がん50.3%が続いた。甲状腺がんは多様な薬が開発されていることが背景にあるとみられる。一方、治療薬が見つかりにくいと言える変異の割合が低かったのは唾液腺がん、脂肪肉腫、腎細胞がんでいずれも0.5%未満。がんの種類によって大きな差があることも明らかになった。

 同研究所によると、これまで欧米のデータを分析した研究はあったが、日本人を対象にしたのは初めて。今回、日本人に多い胆道がんや胃がん、子宮頸(けい)がんも解析対象に含まれた。米国白人のデータとの比較では、治療薬の標的となる遺伝子変異などが見つかった症例割合は約3分の2だった。

 これらの結果について研究チームの同研究所の片岡圭亮・分子腫瘍学分野長(慶應義塾大学医学部内科学教授)らは効果的な治療薬が少ない膵臓や胆道などの難治がんが解析対象に多く含まれたためとしている。

治療薬の標的となるゲノム異常がある症例割合(国立がん研究センター提供)
がんゲノム情報管理センターに登録されているさまざまながんの症例数を示す図(国立がん研究センター提供)

治療薬開発の促進が急務

 厚生労働省は2019年12月に適切な治療薬にたどり着けたがん患者はわずか約1割だったと発表している。同省は同年10月末までに134の病院で遺伝子パネル検査を受けた患者805人を対象に調べたところ、薬が見つかったのは88人(10.9%)だった。

 この結果は、国立がん研究センター研究所が行った今回の解析で判明した「治療薬の標的となる遺伝子変異があったのは全体の15.3%」の数値と近い。厚労省調査の対象がん種の詳細は不明だが、いずれにせよ、がんの投薬治療はまだ適切、効果的な治療薬が見つかりにくいという現在のがん医療の大きな課題が浮き彫りになった形だ。同研究所の片岡分野長も日本人のがんゲノム異常の特徴から日本人に多い難治がんなどのがん種での治療薬開発の加速が急務、と指摘している。

 国立がん研究センターは遺伝子パネル検査データの解析のほか、さまざまながん患者の遺伝子解析をして多くの興味深い研究成果を発表している。例えば、2023年の3月には、アルコールを代謝しにくい体質の人が飲酒をすると、「スキルス胃がん」に代表される治療の難しい「びまん型胃がん」の発症リスクを高めると発表している。1000人以上の患者のがん組織を遺伝子解析した結果で発症予防や治療法発見につながると期待された。

 また、2023年の1月には、大腸がんの手術をした患者の血液を採取、がん遺伝子を調べて再発リスクを判定する方法を発表している。抗がん剤による治療効果は個人差があるとされる。このため、個人ごとの再発リスクの評価は手術後の適切な抗がん剤治療についての判断に有効だという。副作用も少なくない抗がん剤の適切な治療につながる成果だ。

遺伝子差別につながらないことが必須

 患者の遺伝子を調べるさまざまな研究はがん治療の進歩を支えている。研究が進んでいる背景にはがんの種類ごとに遺伝子変異が分かってきたことが挙げられる。ただ、その一方で、個人で異なる遺伝子、遺伝情報は「究極のプライバシー」だ。その保護と差別防止はがんゲノム医療を進める上での大前提だ。保険加入や就職などの場面で遺伝情報の不適切な取り扱いがあってはならない。

 ゲノム医療を適切、公平公正に進めるための「ゲノム医療推進法」が2023年6月に第211回通常国会で成立している。遺伝情報による不当な差別をしないことなどを明記しているが、新法は原則を示し、「総論」的なため、新法の理念に合った研究、医療体制を整備するために具体的な施策が求められる。

 がんに限らず同じ病気でも原因と関係する遺伝子の変異は患者によって異なる。どの遺伝子のどの部分に原因があるか分かれば、患者に合った、体力的負担や費用、高価な薬使用の面などで無駄のない効果的な治療法が見つかる可能性があり、期待は大きい。それだけにゲノム医療の推進と遺伝情報保護と差別防止は車の両輪と言える。

ゲノム医療の概念図(国の「全ゲノム解析実行計画2022」から)(厚生労働省提供)

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