レビュー

ゲノム医療の推進を目指す新法が成立 遺伝差別の防止明記し、国に計画策定を義務付け

2023.06.26

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト、共同通信客員論説委員

 病気の診断や治療に、個人で異なる全遺伝情報を活用する「ゲノム医療」が国内で広がりつつある。患者一人一人に合った効果的な治療法を見つけられる可能性があり、この新しい医療への期待は大きい。その一方で、遺伝情報は生涯変らない「究極のプライバシー」であることから、その保護と不当な差別防止はこの医療を進める上で大前提と指摘されてきた。

 この医療を適切、公平公正に推進するための法律「ゲノム医療推進法」が6月9日、第211回通常国会で成立した。世界最高水準のゲノム医療を実現させ、国民が広く恩恵を享受できることを理念に掲げた。また国に基本計画策定を義務付け、遺伝情報による不当な差別をしないことなどを明記した。新法の理念に合った研究、医療体制を整備するための実効性ある施策が待たれる。

ゲノム医療の概念図(国の「全ゲノム解析実行計画2022」から)(厚生労働省提供)

体をつくるための設計図

 ゲノムとは生物が持つ全ての遺伝情報のことで、英語は「genome」。「gene(遺伝子)」に、総体を表す接尾語「ome」を合わせた造語だ。「chromosome(染色体)」の末尾を合わせたという説もある。生物の体をつくるタンパク質の種類を指定する遺伝子と遺伝子の働きを制御する情報などが含まれる。

 一部のウイルスを除く大半の生物では、DNAを構成する4種類の「塩基」と呼ばれる物質の配列が遺伝情報を記録している。ゲノム、遺伝子、DNAと続くと混乱しそうだが、ゲノムを改めて定義すると「DNAの塩基配列で決められた遺伝情報が記録された遺伝子を含む全遺伝情報」ということになる。

 米国などの先進各国では1990年代からゲノムの全塩基配列を解読するゲノム解読プロジェクトが進んだ。2003年4月に米国、英国、日本、フランス、ドイツ、中国の6カ国首脳が「ヒトゲノム計画が完了した」と宣言。6カ国の国際チームが約32億の塩基対からなるヒトゲノムのうち約28億3000万の塩基配列を解読したことを明らかにした。

 解読には6カ国24機関が参加し、日本からは理化学研究所や慶應義塾大学、東海大学などが参加して解読作業全体の6%を担った。当時、解読結果に関連して世界を驚かせたのは、30億以上の塩基が連なるDNAのうち、遺伝子部分はわずか2.6%だったことだ。残りはタンパク質作成を直接指定しない領域だった。

 体は細胞で構成している。例えば筋肉は筋肉の細胞で、骨は骨の細胞でできている。一つ一つの細胞の中には遺伝子があり、ゲノムは体をつくるためのいわば設計図のようなものだ。ゲノムが解読された成果はその後の医療、医学の進歩に大きなインパクトを与えた。

 ゲノムに関係する技術も大きく進歩した。生物のゲノムを効率よく編集するツール「クリスパー・キャス9」を開発し、2012年に論文を発表した独マックスプランク研究所のエマニュエル・シャルパンティエ博士と米カリフォルニア大学バークレー校のジェニファー・ダウドナ博士が20年のノーベル化学賞を受賞している。

クリスパー・キャス9の仕組みの模式図の一部(ノーベル財団/スウェーデン王立科学アカデミー提供)

がん治療の分野でいち早く実用化

 遺伝子の変化が遺伝子変異で、どの遺伝子に変異が起こるかは個人で異なる。遺伝子変異を網羅的に調べ、その結果を生かして効果的、効率的に発病した個人に合った診断や治療を行うのがゲノム医療だ。

 ヒトゲノムの解読という画期的な成果に合わせるように2000年代以降、さまざまな病気の発症や進行に遺伝子変異が関わっていることが次々に明らかになった。遺伝子を調べる検査や遺伝子の異常に対する薬の開発研究も進んだ。

 ゲノム医療は難病を含めたさまざまな病気での応用が期待されているが、がん治療の分野でいち早く実用化が進んだ。日本国内の環境整備は厚生労働省や国立がん研究センターを中心にここ5年ほどで一気に進み、現在「がんゲノム医療」と呼ばれている。

 がんは、正常な細胞の遺伝子が変化してがん細胞になり、増殖したがん組織が体を衰弱させる病気だ。同研究センターによると、がんゲノム医療はがん組織を用いて多数の遺伝子を同時に調べ、遺伝子変異を明らかにすることにより、一人一人の体質や病状に合わせた治療を目指しているという。

がんゲノム医療の概念説明図。厚生労働省「がんゲノム医療推進に向けた取組」から(厚生労働省提供)

遺伝子パネル検査が保険診療に

 いち早く実用化したがんゲノム医療では、がん患者の組織に起きている遺伝子変化を調べる検査が重要な役割を果たす。2019年6月には一度に多くの遺伝子を調べられる「がん遺伝子パネル検査」が保険適用になり、保険診療も始まった。

 パネル検査は、厚生労働省が指定する全国13のがんゲノム医療中核拠点病院、32の拠点病院のほか、200以上ある連携病院を合わせて計約250医療機関(23年4月時点)で受けられる。パネル検査の結果、遺伝子変異が見つかり、その変異に対して効果が期待できる薬がある場合は臨床試験を含め投薬治療を検討する。治療方針の決定に際しては主治医、遺伝医学の専門医のほか、カウンセリング技術を持つ医療従事者も参加する。

 ただ、同研究センターによると、検査の結果で遺伝子変異が見つからなかったり、変異が見つかっても使用できる薬がなかったりする場合もある。実際に服用に結びつく患者はまだ全体の10%程度という。この数字を上げることは今後の課題の一つになる。

副作用を少なくする効果に期待

 現在、がんの標準治療では多くの抗がん剤が使われている。抗がん剤は正常な細胞にもダメージを与えることから副作用も少なくない。同じ部位のがんでも患者によって変異した遺伝子が異なる場合は、同一の薬の効き方や副作用が異なる可能性が出てくる。遺伝子変異が分かればその部分を薬で狙い撃ちすることにより、副作用を少なくして高い治療効果が期待できる。個々の患者のがんに特異的なタンパク質などの分子を狙う「分子標的治療薬」が既に臨床応用されている。

 がんの分野でのゲノム医療の実用化は加速しているが、治療実績を上げるためにはより多くの患者のデータの蓄積が必要だ。一方、検査結果や病状に関わるデータは厳重な管理が求められる。このため国内でも情報の保護や遺伝差別防止が大きな課題として浮上し、今回のゲノム医療推進法成立への流れになった。

がんの標準治療とゲノム医療の違いの概念図(国立がん研究センター提供)

超党派で法案提出しスピード成立

 病気を診断したり治療法を決めたりする上で役立つ遺伝情報は、その扱いによっては就職活動や生命保険への加入時に不利な扱いを受ける遺伝差別につながる恐れがある。患者が安心して遺伝情報を提供できる環境がなければ、ゲノム医療の健全な発展は望めない。日本医学会と日本医師会は2022年4月、遺伝情報による社会的な不利益や差別を防ぐ法律の整備を国に求める共同声明を発表。患者団体なども同様の声明を出した。

 こうした動きを受けて与野党の超党派でつくる「適切な遺伝医療を進めるための社会的環境の整備を目指す議員連盟」(会長・尾辻秀久参議院議員)は同年10月、国に体制整備や財政支援を求め、差別を防ぐ仕組みづくりを求める議員立法案の概要をまとめた。法案は今年5月31日に衆院本会議に提出された。

 法案は6月9日に参院本会議で可決、スピード成立したが、ゲノム情報の医療応用をめぐる日本の法整備・規制は欧米などと比べて大きく出遅れた。遺伝情報によって個人の尊厳が傷つけられてはいけないという理念は1997年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が採択した「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」で国際的に共有された。日本政府も2000年に人権や尊厳を損なわずに研究を進めるための「ヒトゲノム研究に関する基本原則」を作ったが、法整備・規制にはつながらなかった。

第211回通常国会の開会式(2023年1月23日)(衆議院事務局提供)

 米国では遺伝子情報差別禁止法(GINA)が2008年5月に成立し、遺伝情報に基づく就職や保険加入に際しての差別を禁止している。米国では一早く1995年の段階で同法の趣旨に似た法案が議会に提出されたが、産業界の反対で廃案になった。その後何度も提出され、廃案を繰り返した上での成立だった。カナダにもGINAに似た法律がある。フランスやドイツのほか、韓国でも遺伝子検査などに関する法律で差別を禁止している。

医療推進と差別防止は車の両輪

 日本でやっと成立したゲノム医療推進法は、基本理念に、恩恵(恵沢)の国民享受、生命倫理への配慮、情報保護・差別防止の3つを掲げた。この中でも特に大切な差別防止の条項では「生まれながらに固有で子孫に受け継がれ得る個人のゲノム情報による不当な差別その他当該ゲノム情報の利用が拡大されることにより生じ得る課題への適切な対応を確保するため、必要な施策を講じるものとする」と明記している。

 病気のリスクを高める遺伝子の変異は誰にでも起きる。ゲノム医療は診断や治療方法の進歩という形ですべての人に恩恵を与える可能性がある。同時に遺伝情報をめぐる差別は人ごとではない。遺伝子検査の強制は絶対に許されないし、検査を受けない自由も担保されなければならない。

 医療分野の技術進歩は加速している。新たな診断法や治療薬の開発に対する社会の期待は大きいが、ゲノム医療は多くの人からデータが得られないと成立しない。この医療の推進と、遺伝情報保護・差別防止や不利益を防ぐ仕組みは車の両輪だ。

ゲノム医療推進法条文の一部。衆議院ホームページ「立法情報」から(衆議院事務局提供)

関連記事

ページトップへ