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「ハーッ」呼気による個人認証、原理を実証 なりすまし許さぬ技術に期待

2022.06.16

草下健夫 / サイエンスポータル編集部

 ネット犯罪やテロをはじめ、世の中のさまざまな危険から社会や組織、個人を守るため、暗証番号やパスワード、指紋、顔などを使って個人を認証する仕組みが整えられてきた。こうした中、新たに呼気で個人を認証する原理を実証した、と東京大学など産学の研究グループが発表した。呼気に含まれる分子を化学的に分析する。指紋や顔と違い“なりすまし”が極めて難しいなどのメリットがある技術として、活用される可能性がある。

呼気による個人認証の概念図(東京大学提供)
呼気による個人認証の概念図(東京大学提供)

使えば消えてしまうガス、悪用しにくい

 生体認証はこれまでに指紋、掌紋(しょうもん)、顔、虹彩、網膜、指の静脈、耳音響(耳の穴の形で決まる音の反射)、声紋などを使って開発されてきた。ただしこれらは、けがをした場合の精度の低下や、情報を偽造されたり盗まれたりした場合に長期になりすまされてしまうなどの問題がある。

 一方、体から出るガスに含まれる分子の種類や割合を読み取れば、こうした問題を克服できると考えられている。ガスはいったん認証に使うと飛んでいってしまうので、他人が長期になりすませないという利点がある。そこで、皮膚から出るガスを使った研究が行われてきたが、多くの分子の濃度がppt(1兆分の1)~ppb(10億分の1)レベルにとどまるため、センサーの検出限界を大きく下回っていたという。

 素人の感覚だと、微量の皮膚ガスより、まとまった量をいつでも吐き出せる呼気の方が扱いやすいように感じる。なぜ、皮膚が先行したのだろうか。これについて、東京大学大学院工学系研究科の長島一樹准教授(ナノ材料化学)は「2013年にスイスのグループが、呼気の成分が人によって違う可能性があると報告している。ただおそらく、呼気では食べ物のにおいの影響が考えられることから、その後は主に皮膚ガスが研究されてきたのではないか」とみている。

97%以上の精度で個人を識別

 こうした中、長島氏らの研究グループは呼気中の分子の濃度がppb~ppm(100万分の1)と、皮膚ガスより3桁ほど高いことに着目。人工嗅覚センサーで呼気を捉えられれば個人認証ができるのではないかとみて、原理の実証に挑んだ。呼気には概ね1000種類ほどの分子が含まれているという。中には遺伝情報由来のものも含まれていることが、最近の研究で分かってきた。

 まず呼気の成分を調べたところ、皮膚ガスと同じ成分が多く検出された。人によって異なる成分のパターンがあることも確認できた。

 これを受け、16種類の素子からなる人工嗅覚センサーを、パナソニックインダストリー(大阪府門真市)が中心となって開発した。高分子材料と導電性カーボンナノ粒子でできている。その仕組みは、標的の分子がくっつくとセンサーの材料が膨張し、導電性カーボンナノ粒子の間の距離が広がる。すると電気抵抗が増して分子を検出する――というもの。検出のしやすさは高分子と標的の分子の性質で決まる。多種類の高分子を使ったセンサー素子を並べれば、さまざまな分子を検出できるようになる。

実験に使った、人工嗅覚センサーや呼気を吹き込む袋など(東京大学提供)
実験に使った、人工嗅覚センサーや呼気を吹き込む袋など(東京大学提供)

 実験では年齢や国籍、性別の異なる6人に、袋に呼気を吹き込んでもらった。食べ物の影響を避けるため、空腹時に行った。その結果、16種類のセンサー素子は全て異なる応答を示し、しかも個人ごとにパターンが異なった。素子の種類によってくっつく分子が違い、また特定の分子に対する反応の度合いが異なる。人により呼気の成分が違うため、これらの全体ではパターンの違いが出る。機械学習を活用してそれを捉え、97%超の精度で個人を識別することに成功した。実用化にはまだ遠いものの、十分に有望な成績といえるだろう。

 対象を20人に増やした実験でも、97%を上回った。全ての素子が個人認証に役立つことや、素子を増やすと精度や再現性が高まる傾向もみられた。採取した呼気は1人あたり1~10リットルだが、もっと少なくてよいという。

 研究グループは東京大学、九州大学、名古屋大学、パナソニックインダストリーで構成。成果は英王立化学会の化学誌「ケミカルコミュニケーションズ」電子版に5月20日に掲載された。研究は科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業、日本学術振興会科学研究費助成事業の支援を受けた。

6人を対象にした実験の結果。16種類のセンサー素子は全て、異なる応答を示した。機械学習を活用し、個人ごとに特徴の異なるパターンが得られた(東京大学提供)
6人を対象にした実験の結果。16種類のセンサー素子は全て、異なる応答を示した。機械学習を活用し、個人ごとに特徴の異なるパターンが得られた(東京大学提供)

センサー改良、安全性高い認証なるか

 研究グループの東京大学大学院工学系研究科の柳田剛教授(ナノ材料化学)は「分子という化学的な情報を使い、個人を識別できる可能性があることを示せた。物理的な情報を使った顔認証や指紋認証に比べ、まだ正確性は低い。ただし、分子は真っ暗な場所でも飛ぶし、指紋が汚れていたら、といった問題もない。それぞれの方法に良い点と悪い点があり、相補的なものだ」との見方を示す。

 今回はあくまで原理の実証であり、実用化に向けては課題も多い。特に、温度や湿度の変化によるセンサーの安定性の問題が大きいという。センサーが動かなくなると、せっかく学習したデータが使えず精度が低下する。材料やデバイスの開発が重要だ。

 食べ物や香水など他のにおいの影響の排除や、さらに多人数による認証も、これから検証していく必要がある。センサーを改良して性能を高めれば、こうした課題を克服し、安全性の高い認証につながると期待される。

 研究の面白さについて、柳田氏は「体から出る揮発性成分には変わらないものがある一方、病気など日々の状態により変わるものもある。これらの情報を、さまざまな材料やデバイスを使ってどんどん調べ、採れなかったデータを採れるようにし、学習データを増やしたい。実用化の興味ももちろんあるが、背後には、今まで複雑で理解できなかったことを理解できるかというサイエンスの興味がある」と語る。人間の体をどんな方法でどうやって調べ尽くせるかという、実に奥深いテーマがここにはあるようだ。

 筆者は仕事用のパソコンの顔認証でもたつき、朝から「もしかして…顔のせい?」と凹むことがある。パソコンやスマホを使うとき、あるいはお店の決済のとき、端末にハーッと息を吹きかけて認証する日が来るだろうか。

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