レビュー

“行ける月面から、行きたい月面へ”高精度着陸機「スリム」いざ出発

2023.08.17

草下健夫 / サイエンスポータル編集部

 「月は有明の、東(ひんがし)の山ぎはにほそくて出づるほど、いとあはれなり」

 最も親しまれる古典の一つ、清少納言「枕草子」の一節だ。夜明け、新月の前の細く欠けた月が東の山際から昇ってくるが、やがて空が明るくなり見えなくなることの風情が感じられる。月は古来、日本人の感性を磨いており、月を題材にした文学、ことわざなどは数知れない。そして現代。月は日本人が技術を磨く舞台となり、小さな機体が向かおうとしている。高精度の月面着陸に挑む日本の実証機「スリム」だ。

 宇宙航空研究開発機構(JAXA)種子島宇宙センター(鹿児島)から26日、大型ロケット「H2A」で打ち上げられる。これまで各国の月面着陸位置の誤差が1キロ以上だったのに対し、独自技術で100メートル級を目指す。目的地にピンポイントに着陸できるようにすることで、いわば“行ける月面から、行きたい月面へ”と、探査技術を飛躍させる狙いがある。小型軽量化も進めた。成功すれば日本初の月面軟着陸ともなるだけに、期待が高まっている。

月面へ降下するスリムの想像図(JAXA提供)
月面へ降下するスリムの想像図(JAXA提供)

「ピンポイント」科学の要求に応える

 ある年代以上の大人は月探査というと、有人着陸を果たした1969年の米「アポロ11号」を、まず思い浮かべるだろう。無人の探査機で初めて軟着陸したのは66年、旧ソ連の「ルナ9号」で、米国が4カ月後に続いた。今世紀に入ると日本の周回機「かぐや」(2007~09年)や米「ルナー・リコネサンス・オービター」(09年~)により精細な地形データが得られ、月面の詳しい様子がつかめてきた。着陸機は13年に「嫦娥(じょうが)3号」が実現し、19年に4号が史上初めて月の裏側に降り立つなど、中国が積極的だ。ロシアは今月11日に「ルナ25号」の打ち上げに成功し、1976年以来、実に約半世紀ぶりの着陸を21日に計画。また23日にも、インドの「チャンドラヤーン3号」が同国初の着陸を目指しているという。

月周回機「かぐや」の想像図(池下章裕氏提供)
月周回機「かぐや」の想像図(池下章裕氏提供)

 月は地球から近いにも関わらず、起源や歴史に、まだまだ謎が残されている。探査や研究が進むにつれ、科学者の関心は「あの場所の岩石が見たい」といった具合に具体的に絞られるようになった。探査機は従来のように数キロといった位置の誤差を考えた安全な広い平原だけではなく、狙った場所にピンポイントで降り立つことが求められる。探査車を走らせる手もあるが、経路に凹凸が少ないことが前提となる。

 また、極域のクレーターの影などで太陽光が当たらない場所に、水の氷が豊富にあるとの見方がある。もしそうなら将来、飛行士の飲み水や輸送機の燃料源などとして使えそうだという。その場合は日陰の氷に近く、かつ発電のため太陽光を受けられるといった条件の、限られた場所に着陸する必要が生じる。

 このように科学と開発利用の両面から、ピンポイント着陸を目指す機運が高まっているのを背景に、JAXA宇宙科学研究所(宇宙研)や大学などの研究者が長年、準備を進めてきたのが今回のスリムだ。技術は将来、火星などの惑星やそれらの衛星の探査にも生きる期待がある。

 スリムの坂井真一郎プロジェクトマネージャ(宇宙研教授)は「脈々と続いてきた研究がようやく形になり、月に向かおうとしている。ピンポイントの着陸は確立しておくべき技術。月に関する議論は活発になり、スリムも注目されている。楽しみだが非常に責任も感じており、きちんと成功させたい」と話している。

実現の鍵は…デジカメの顔認識と同じ原理

 機体は高さ2.4、幅2.7、厚さ1.7メートル、燃料を含む重さは700キロほど。16日時点の計画では、26日午前9時半過ぎにH2Aの47号機で、エックス線天文衛星「クリズム」との相乗りで打ち上げられる。その後は3~4カ月で月周回軌道に到達し、さらに1カ月ほど周回してから着陸に挑む。スリム(SLIM)の名は「Smart Lander for Investigating Moon(スマート・ランダー・フォー・インベスティゲーティング・ムーン=月を調べるスマートな着陸機)」の頭文字から採った。打ち上げ後もスリムのままで、かぐやのような和名はつけないという。開発費は約149億円(打ち上げ費用の一部と初期運用費用を含む)。

 ピンポイント着陸技術の肝は「画像照合航法」。その原理は、私たちが使うデジタルカメラの一部が採用している顔認識機能と同じという。デジカメでは自動で人の顔を認識してピントや明るさを合わせるが、スリムは上空からカメラで月面を撮り、過去にかぐやが撮影したデータと照合しながらクレーターを認識。機体の位置や高度をリアルタイムで把握し、目的地へと降りていく。カメラの画像から岩などの障害物を検出し、自ら避けて着陸する。チームは、1~2秒の高速で画像処理して位置を特定する仕組みなどを開発してきた。

画像照合航法。撮影した画像からクレーターを抽出した上で、広域の地図データと照合し、クレーターのパターンが一致する場所を特定して位置を把握する(JAXA提供)
画像照合航法。撮影した画像からクレーターを抽出した上で、広域の地図データと照合し、クレーターのパターンが一致する場所を特定して位置を把握する(JAXA提供)

 着陸地点は低緯度の平原「神酒(みき)の海」にある「シオリクレーター」付近の、半径100メートルの円内。この地域では月の内部の「かんらん石」が露出している。かんらん石は、地球ではマントルを作る岩石として知られ、月のものも同様らしい。分析により、月が地球からちぎれて生まれたのか、または赤の他人が地球の引力に捕まったのかといった、起源や歴史の理解につながるという。一帯は15度の傾斜地だが、今後はこのような場所への着陸が一般的になるとの判断から選ばれた。

 神酒の海(ラテン語でMare Nectaris、マーレ・ネクタリス)の名はギリシャ神話の神々の飲み物「ネクタール」に由来する。シオリは、国際天文学連合(IAU)が「月面の小型クレーターの名は一般的なファーストネーム」と規定しており、またスリムチームの科学者らが「歴史の転換点に挟まれる栞(しおり)になる」との願いを込めたことから、命名された。

矢印の先がスリムの着陸地点(NASA提供)
矢印の先がスリムの着陸地点(NASA提供)

わざとコケて“満点”の仕組み

 着陸は、ユニークな独自の仕組みを採用した。まず1本の足で月面に接地し、次に残り4本の足も使って、傾斜地にしがみつくように倒れ込む。スリムチームは「2段階着陸方式」と呼ぶが、「わざとコケる方式」の方が直感的で分かりやすい。アポロや、スリム計画当初の想像図に描かれた典型的な4本足の着陸機とは、大きくかけ離れた姿だ。普通はコケたら、すぐ着陸失敗と言い切らないまでも“大減点”だろうが…ここで「ずるい」などと言ってはいけない。スリムが傾斜地に降りることに決まったのを受け、固定観念にとらわれず確実な着陸法を練った結果という。研究者たちのアイデアが光っている。

スリム独自の「2段階着陸方式」(JAXA提供)
スリム独自の「2段階着陸方式」(JAXA提供)

 機体は燃料タンクをそのまま機体の構造体としたほか、小型のエンジンや、足に関節を持たせず、スポンジ構造の金属で着陸の衝撃を吸収する仕組みを採用するなどして、軽量化した。工夫の結果、機体の見た目は形容し難い、独特なものになっている。筆者の第一印象は、世代がバレるが「インベーダー型」…皆さんはどうだろう。

独特の形状を持つスリム。月面への降下時とは逆に、エンジンが上の状態で撮影されたもの=今年1月、神奈川県鎌倉市の三菱電機鎌倉製作所(JAXA提供)
独特の形状を持つスリム。月面への降下時とは逆に、エンジンが上の状態で撮影されたもの=今年1月、神奈川県鎌倉市の三菱電機鎌倉製作所(JAXA提供)

 スリムの主目的はピンポイント着陸技術の獲得だが、小型ロボットの実証や科学分析も行う。着陸直前に2体の小型ロボットを分離し、スリムが着陸した姿の撮影や状況確認などを目指す。うち1体は飛び跳ねるなどして移動するタイプで、JAXAや中央大学、東京農工大学、和歌山大学などが開発。もう1体は球形で、着地後に卵が割れるように変形して2輪で走るもので、JAXAとタカラトミー、ソニーグループ、同志社大学が開発した。スリム本体は着陸後、分光カメラでかんらん石の組成を分析する。

スリムが着陸直前に分離する2体の小型ロボット。左は飛び跳ねるなどして移動するタイプ(想像図=JAXA、中央大学、東京農工大学提供)、右は変形して2輪で走るタイプで、2体写っているが今回は1体(JAXA、タカラトミー、ソニーグループ、同志社大学提供)
スリムが着陸直前に分離する2体の小型ロボット。左は飛び跳ねるなどして移動するタイプ(想像図=JAXA、中央大学、東京農工大学提供)、右は変形して2輪で走るタイプで、2体写っているが今回は1体(JAXA、タカラトミー、ソニーグループ、同志社大学提供)

「どんなピンチも切り抜け」悲願達成へ

 日本の探査機はまだ、重力が十分ある星に着陸していない。探査機「はやぶさ」「はやぶさ2」は物質採取のため小惑星にピンポイントで着地したが、重力は地球の数万~数十万分の1しかなく、ほぼ無重力。ゆっくり降下したり、必要なら上昇してやり直したりできる。これに対し月の重力は地球の約6分の1と大きく、表面に激突するリスクがあるなど、事情は全く異なる。逆噴射の制御などが大きなハードルとなる。

 日本はこれまで何度も月面軟着陸を検討しながら、実現に至っていない。かぐやは、開発初期には着陸機を載せる計画だったが、観測機器を優先するなどのため見送られた。米国のロケットで打ち上げられ、世界初の民間月面軟着陸と期待されたアイスペース社(東京)の機体は今年4月、成功を目前に涙を飲んでいる。月面軟着陸は、日本の悲願となってきた。

 かぐやに続く月探査として2000年頃から検討された着陸機「セレーネB」の構想を源流とし、紆余曲折を経て、コンパクトな機体を実現すべく開発が進んだのがスリムだ。冒頭で触れたルナ9号は約1.5トン、嫦娥4号は約3.7トン。これに対しスリムは、わずか700キロほど(いずれも打ち上げ時)。小型軽量化でコストなどを低減するノウハウを獲得すれば、その後の月・惑星探査がやりやすくなる。

 政府がJAXAのスリム計画にゴーサインを出した2015年には、「日本もいざ月面へ」の期待感と共に新聞の1面トップなどで大きく報道された。その後、米主導の月探査「アルテミス計画」に日本が19年に参加を表明し、技術で将来にわたり貢献できるとの期待も加わり、注目は高まり続けた。

 開発開始後は延期が重なり、待ち望む研究者らを焦らしてきた。2015年の時点では、小型ロケット「イプシロン」で18年度にも打ち上げる計画だった。その後、スリム自体の設計見直しや、運用ミスで失われた天文衛星「ひとみ」の代替機クリズムとH2Aに相乗りする計画に変更されたことなどから、21年度に延期された。さらに、打ち上げを今年度初めとしていた今年3月には、大型ロケット「H3」1号機が失敗。これを受け、H2Aにも技術的な問題がないかを調べる必要が生じ、8月にずれ込んでいる。

 スリムチームのX(旧ツイッター)アカウントは7日の投稿で「キャッチコピーは“ムーンスナイパー”。(漫画の主人公の)ルパン三世の相棒で射撃の名手、次元大介のようにピンポイントで的を射抜いてくれると信じている。これまで同様どんなピンチも、次元を見習い前向きに切り抜けていきたい」と意気込みを示した。ユーモアで語ってはいるが、「これまで同様どんなピンチも」の言葉に苦節がにじんでいる。

(左)H2Aロケット47号機の機体には、相乗りするクリズムとスリムのロゴマークが描かれている=昨年7月、愛知県飛島村の三菱重工業飛島工場(同社提供)、(右)設計見直し前のスリムの想像図。着陸機に典型的にみられる4本足が描かれていた(池下章裕氏提供)
(左)H2Aロケット47号機の機体には、相乗りするクリズムとスリムのロゴマークが描かれている=昨年7月、愛知県飛島村の三菱重工業飛島工場(同社提供)、(右)設計見直し前のスリムの想像図。着陸機に典型的にみられる4本足が描かれていた(池下章裕氏提供)

月面開発時代、日本のもう一つの貢献は

 冒頭にも触れたが、これまでの月面無人軟着陸の着順は旧ソ連(ロシア)、米国、中国。そして今月23日にもインドが試みるという。日本はスリムでこれらに続くか、順位が全てではないが、見守りたい。

 なお昨年11月には、米国のロケットで打ち上げられたJAXAの超小型の実証機「オモテナシ」が月面着陸を果たせなかった。ただ同機が目指した「セミハードランディング」は、衝突ともいえる「硬着陸」の部類。一般に着陸の言葉が指す、緩やかな軟着陸とはいえないため、仮に成功しても月面着陸国は名乗れなかった。打ち上げに使うロケットも含めた、日本の機体で軟着陸を実際に試みるのは、スリムが初めてとなる。

 人類の活動が月面に展開する暁には、日本の貢献は技術だけにとどまらないのではないか。古来磨いてきた月に対する繊細な感性を何らかの形で、世界の人々と分かち合えたら素敵だ。日本の心が生み出したスリム。神酒の海で神々と祝杯に酔いつつ、どんな思いで地球を見上げるのだろう。

神酒の海の傾斜地に着陸を果たしたスリムの想像図(JAXA)
神酒の海の傾斜地に着陸を果たしたスリムの想像図(JAXA)

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