日経新聞の論説記事や朝刊一面のコラム「春秋」で筆を振るっていた旧友、塩谷喜雄氏から新著「『原発事故報告書』の真実とウソ」(文春新書)を送っていただいた。同世代ではピカイチの科学記者と尊敬する(マージャンの腕は編集者よりやや劣る)氏が書いたものだから、同種のものとはだいぶ違う。東日本大震災が起きる半年前に氏が日経を退社していなかったら、福島原発事故でマスメディアが果たした役割も相当違っていたのではないか。半日で読み終えて、あらためて思った。
福島第一原発事故については、よく知られているように「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)、「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」(政府事故調)、「福島原発事故独立検証委員会」(民間事故調)という3つの委員会による分厚い報告書が公表されている。
このほかに当事者である東京電力自身による報告書も出ているが、こちらについては中間報告が公表された時点で当サイトにも寄稿してもらった(2011年12月14日オピニオン「ぼくちっともわるくないもん」参照)。題名通り、「科学的合理性を欠いた事実の偽装と、開き直りが満載で、かなり異様」と徹底的に批判されている。
東電以外の3つの報告書について、評価できるところはきちんと指摘し、それに倍する批判を加えているのが、実に分かりやすい。新聞、放送、週刊誌などの報道に編集者が首をかしげていた点にも、明快な批判と解説をしてくれている。例えば、菅首相に対する批判にマスメディアが乗り、退陣に追い込んだことについてだ。
菅首相、官邸の対応について氏は、「民間事故調の報告が最も客観的で、最もフェアーだという印象を持った」と評価している。この報告書を引用し、問題にされたベントについて「菅流の直截に切り込むやり方が効を奏したのは間違いない」と言い切っている。さらに「東電にとっては、『イラ菅』の過剰介入という物語は、まさに地獄に仏、責任の所在を分散し、あいまいにする絶好の材料になった」とも。
では、なぜマスメディアが、菅首相批判に精を出したか。これについても、今のマスメディアが持つ本質的な問題点を突いている。
「首相や官邸の動向報道に科学技術的な専門知識はいらない。細切れのコメントを上手につないで、思惑や類推をちりばめれば、一本の記事が出来上がる。しかも、読者、視聴者の注目度は高い。緻密な取材と豊富な知識を必要とする、事故現場の客観的な状況把握に比べれば、首相モノ、官邸モノは、『報道効率』がとてもよいのである」
塩谷氏の著書にはこのほかにも「なるほど」と納得する指摘が多い。「委員のメンバー構成は、日本の政治と行政が多用してきた典型的な審議会運営のパターンを踏襲している。トップには調整型の幅の広い穏健な学究を据え、法曹や行政の実務経験者を手厚く配して、法制度的な秩序の枠組みを固める。うるさ型、告発型の知識人も必ずメンバーに加え、議論は幅広く多角的に進め、結論は常識的にまとめあげる」。政府事故調に対する評だ。
「現場の原発の構造と機能を緻密に分析する前に、首相官邸と現場の人間ドラマに、事故の本質を求めるのは、少し無理があるのではないか」。菅首相、官邸の対応に対する記述がフェアーだと評価された民間事故調についても、総合点は辛い。
3つの事故調の中で総合評価が一番高かった国会事故調に対しては、「孤高の地震学者」、石橋克彦・神戸大学名誉教授や、原子炉メーカーで原子炉設計の経験を持つ科学ジャーナリスト、田中三彦氏を委員に加え、地震の揺れと、原子炉に与えた影響の可能性を可能な限り解明しようとした努力を高く評価している。しかし、同時に「首相と官邸の批判に走り、結果として東電の責任逃れに手を貸した」と、厳しい評価も。
アカデミズムとジャーナリスムの罪にも1章を割いている。氏と同じ時期、同じ現場で原子力、科学技術政策を取材し合った編集者としては、遅ればせながら大いに反省したい。
あれは米スリーマイルアイランド原発事故の翌年に行われた原子力安全委員会の東電柏崎原発2、5号機の公開ヒヤリング(新潟県柏崎市、1980年)だったと思う。苦い思い出がある。現地に出張して編集者が書いた公開ヒヤリング導入の経過や問題点などを書いた原稿が社会部の現場キャップに没にされた。代わりに配信されたのは、動労などが動員した反対運動がどうこうといった社会部記者の記事である。「科学技術的な専門知識はいらない」ような…。
少なくとも黙って引き下がるような情けない対応はすべきでなかった、と。