レビュー

編集だよりー 2010年11月11日編集だより

2010.11.11

小岩井忠道

 西新宿で行われた古い友人、山口俊明氏の告別式に出た。脳卒中で倒れた後、リハビリに努め、都心に出でくることもできるほど回復した時期もある。非常に悪い状態になったと聞いていたが、残念な結果になった。

 山口さんといえば、マスメディア関係者に限らずある年齢以上の方ならよく知っている人も多いと思う。時事通信記者時代の1980年に1カ月の夏休みをとって欧州の原子力発電事情を取材、これを社にとがめられ懲戒処分を受けた。この処分取り消しを求めて提訴、長期裁判となり東京高裁でいったん逆転勝訴したものの結局、最高裁は社の懲戒処分を適法とし敗訴が確定する。以来、長期にわたり定期収入のない生活を余儀なくされた。

 クラスの人気者だった、という佐伯鶴城高校の同窓生からの弔電になるほどと納得する。権威を振りかざす人や、形式的な言動を軽蔑(けいべつ)するさわやかな人柄だった。通夜、告別式とも、氏が親族や親しい友人たちに別れを告げるにふさわしい場だったように思う。無宗教で行われた式では、遺族や友人たちの形式張らないあたたかなあいさつが続いた。「リハビリをこんなに一生懸命やるのはまた釣りをしたいから、と言っていた。朝早く出かける時『出刃包丁よく研いておいて』と言うので、『よく研いでおくけど、もし魚を持ち帰らなかったらあなたの首を切る』と応じたことも」。釣りが大好きだった故人の思い出を語る夫人もまた、山口さんに似合いの人ということだろう。

 山口さんと編集者の仲は二人が科学技術庁(当時)の記者クラブ詰めとなって以来だ。編集者は釣りはやらないが、マージャン好きはいい勝負だった。虎ノ門の古い旅館で記者と科学技術庁の広報担当者たちで一杯飲みながらのマージャン大会をよくやったものだ。山梨県の石和温泉まで泊まりがけで出かけてマージャンに興じたこともある。言い出しっぺはいつも山口さんだったと思う。

 1979年の秋、岡山県人形峠で動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)のウラン濃縮パイロットプラントが運転を開始した。科学技術庁詰めの記者にとってはちょっとした出来事である。金子岩三・科学技術庁長官(当時、故人)も記念式典に出席するということもあり、記者クラブ詰めの記者たちも泊まりがけの出張となる。この時も恐らく山口さんの発案だった、と思う。「仕事を終えてすぐ帰るのもつまらない」。近くに映画「秋津温泉」(吉田喜重監督、岡田茉莉子、長門裕之主演、1962年)の舞台にもなった奥津温泉があった。「ここでもう1泊して帰ろう」となる。無論、狙いは記者4人でたっぷりマージャンを、ということだ。確か山口さんがだいぶ勝った。

 11日の告別式で山口さんと親しかった旧知の科学記者と顔を合わせる。最近まで日経新聞の論説委員として健筆を振るっていた塩谷喜雄氏、山口さんのご家族とも親しく付き合っていた日本テレビの倉澤治雄氏と火葬場へ向かう山口さんのひつぎを見送った後、新宿で久しぶりに杯を傾けた。山口さんとわれわれ3人が科学技術庁で一緒に仕事をしていたころと、昨今の世情の違いが話題になる。「国民の知る権利」などということをことさら言わなければならなかったころである。特に山口さんのように権力になびかない記者にとっては、取材も容易ではなかった時代だった。役所だけでなく特殊法人や大企業などの多くの人たちに、マスメディアに積極的に情報を提供するという気持ちなどまずなかった時代といってよい。

 山口さんが、社の言うことを聞かず1カ月の長期休暇を取って欧州での原子力取材を試みたのはなぜか。きちんと聞かないでしまったが、欧州なら日本で得られない多くの情報が得られるはず、という思いからでは、と今になって想像する。欧州で得た情報を基に日本の原子力開発の問題点を洗い出したい、と。

 「小学生のころ父に遊んでもらった記憶がない」。告別式でご子息がいささかの恨みがましさもなく、むしろ懐かしそうに語っていた。山口さん父子の関係に思いをめぐらすとともに、わが身を振り返る。あのころの記者は似たような人間が多かった、と。

 ちなみに塩谷氏は、30年前、奥津温泉で山口さんにいい思いをさせたうちの1人だ。「秋津温泉」の主役、岡田茉莉子が泊まったという一番立派な部屋で朝までマージャンをして…。

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