大阪市立桜宮高校のバスケットボール部顧問による体罰事件で、運動部に対する印象は悪くなったというのが、普通の見方だろう。ただし、高校の運動部員や運動部OB、OGたちの大半は、運動部に対する印象がどうかといったことはあまり気にしていないのではないだろうか。生徒が自殺まで追い込まれたことは、重く受け止める人がほとんどだろうが。
一般科目の成績の良し悪しは、ほとんどの高校生にとって重い意味を持つ。しかし、運動部や文化部でそこそこ活躍したところで、たいした評価など得られない。ごく一握りの優秀な生徒は別として…。これが大方の高校の現実だろう。運動部員といっても、ほとんどはそもそも特別視されている(た)わけでもないのだから、体罰がニュースになろうと他人の評価を気にすることもない、と。
前にもこの欄で触れたことがあるが、1年生のときから抑え投手として活躍し、3年次にはエースとして春の県大会で優勝、という見事な実績を持つ高校の同級生がいる。9年ぶりの甲子園大会出場か、ととりわけ野球部OBが張り切りすぎたとしてもおかしくはない。県大会直前の長期合宿が裏目に出て、選手たちの疲労が頂点に達していた…。後でいろいろ言われただろうが、夏の甲子園大会出場がかかった県大会、それも1回戦でよもやの惨敗、という結果に終わる。
この元エースと4年前、同級生同士の会合で、高校卒業以来はじめて顔を合わせた。もともと無口だったのかもしれないが、幹事役の弁護士に促されてようやく口を開いて出た言葉が面白い。
「成績が○○(チームメートの一人)と最下位を争っていたし、野球もこそこそやっていた感じ」。運動部の中でも別格の扱いだった野球部でこうである。それ以外の運動部員など、物好きな連中としてしか見られていなかったのが、少なくとも編集者たちの時代、大方の高校の現実だったのではないだろうか。普通の高校の運動部に対する見方に変化が生じたとしたら2学年下以下の後輩たち、ベビーブーマー世代が高校生、大学生になり高校、大学の数も急に増えだしたころからだろう。多くの受験生を呼び込む手っ取り早い方法は、運動部を強化して知名度を上げること。そんな高校、大学が目立ちだし、マスメディア特にテレビが格好のコンテンツとしてスポーツに異常な関心を持ち出した…。
「体育会系」という言葉が、微妙なニュアンスを含んで多くの人々の口の端に上るようになったのは、いつごろからだろうか。大学時代、ある私立大学に通っていた高校の同級生が、学費値上げに端を発した学園紛争で、ストライキ中の学生たちに体育会の学生たちが殴りこみをかけてきた、と憤慨して話すのを聞いた覚えがある。
高度経済成長ととともに急成長した広告業界を代表するある企業の体質が「体育会系」的というのは、結構よく知られる事実かもしれない。会社の先輩に怒られた後輩が先輩に命じられるまま、銀座の路上で電柱にしがみつきセミのまねをした。そんな話を客として接待されたという人から聞いたこともある。
体育会系といった言葉には微妙なニュアンスが、と言った意味は、頭脳より体力で勝負しているというやや自虐的な意味合いに加え、“企業戦士”として戦いの最前線を担っているといった自負が見え隠れするということだ。いずれにしろ、どちらかというと芳しくないイメージが強い、ということだろう。
とはいえ、これもまた一つの見方ではないか。これまで編集者がこの欄で何度か繰り返したことである。
中学・高校時代、特に高校時代、運動部活動に精を出した“奇特な”人たちと、それ以外の多数派との性格を比較したらどんな結果が出るだろうか。例えば横柄、あるいは独りよがりな人間が少ないのは、“奇特な人”たちの方ではないか、と編集者は予測する。まあこんな調査をした人はいないだろうが…。
親の持つ遺伝子に優性と劣性の違いがある場合、子の世代では優性遺伝子を持つ親にそっくりな子ばかり生まれる。しかし、その子同士を高配させると親に似た子は4分の3で、残る4分の1は劣性遺伝子だけを持つ2世代前の親に似た子が生まれる—。
はるか昔に習ったメンデルの法則を思い出すたびに考えることは、全ての子が親とうり二つということはない。しかし、トンビが鷹を生むなどということもまたありえない、ということだ。ただ、生物の授業で習わなかったとしても、運動部活動をしていれば、こんなことは自ずと実感できるのではないだろうか。
練習をやらなければ上達するわけはない。しかし、親から引き継いだ遺伝子の制約を飛び越える域にまで達するということもまた、ありえない、と。