レビュー

編集だよりー 2013年1月16日編集だより

2013.01.16

小岩井忠道

 出勤する前に8つ数える習慣を相変わらず続けている。キーホルダー、小銭入れ、腕時計、ハンカチ、ボールペン、財布、携帯電話、手帳・名刺入れ、とちゃんと持ったか一つ一つ確かめながらだ。そんな努力をしているのに、携帯電話を置き忘れたことが何度もある。充電が終わらないので家を出るギリギリまで待とう、と後回しにした結果、そのことを忘れて出てしまう、というわけだ。そのうち8つという数を忘れてしまう時が来るかも。などとちらっと考えたりもするが、まあその前に仕事で出かけること自体がなくなるだろう。

 中国出張から帰り、続く3連休を含む4日間、ほとんど外出せず遅ればせながら中国関係の本を何冊か読んだ。ということで久しぶりの出勤となる。出かける前の確認作業はちゃんとやったつもりが、電車に乗って初めて気づく。購読している2紙を家に忘れてしまい、いつものように電車の中で新聞を読めない。さらに襟元がスース—するので目をやり、ネクタイを忘れたことにも気づく(こういう時に備えて、職場にはネクタイを置いてあるのだが)。

 初めての中国訪問に何の下調べもなく羽田を飛び立った。昨日の編集だよりに書いたが、出発の前日、映画「スパイ・ゾルゲ」(篠田正浩監督・原作、2003年)だけはDVDで観た。主人公ゾルゲと尾崎秀実が最初に出会ったのが上海、という程度のことは知っていたからだ。上海でのシーンでは、共産主義者の米国人ジャーナリストとして有名なアグネス・スメドレーも重要人物として描かれており、なかなか面白い。しかし、実際にはさらに興味深い事実が多々あることを、帰国後に読んだ本で知る。

 上海での尾崎秀美の活動については、東亜同文書院との関係も、以前から気になっていた。編集者の父親が、東亜同文書院の卒業生だからだ。上海に東亜同文書院が創設された年が1901年。入学年次で呼ばれる第何期生かが、そのまま入学した西暦年と同じだから都合がよい。父は旧制水戸中学(現茨城県立水戸第一高校)を卒業した後、1935年に入学した第35期生だ。

 「上海東亜同文書院」(栗田尚弥著、人物往来社)によると、太平洋戦争終結時まで、全国の中学生(旧制)のあこがれの的だったのが、第一高等学校、陸軍士官学校、海軍兵学校とこの東亜同文書院だった。外務省、南満州鉄道、各府県から推薦された学生が全体の半数を占めており、これらの学生の学費・衣食住費は外務省、南満州鉄道、各府県が負担している。さらに学生には、週に1ドルか2ドルの小遣いが支給されていた、という。

 興味深いのは編集者の父が入学する1年前の1934年3月まで、東亜同文書院には中華学生部があり、中国人学生が日本人学生と一緒に学び、同じ寮で寝起きも共にしていたということだ。中華学生部が廃止されたのは、1931年に満州事変が勃発し、翌32年には日本海軍陸戦隊と中国軍が衝突する第一次上海事件が起きるなど、日中関係の悪化に伴って中国人学生が次々に退学していったためだという。

 尾崎秀美が大阪朝日新聞社上海通信部の特派員として活動していたのは1928-1932年の3年余で、東亜同文書院内にできた中国問題研究会のチューターとして院生たちと交流していた。書院が共産主義者に対しても寛容な姿勢を示していたことは、左翼作家連盟の中心人物でもあり、国民政府が逮捕状を出していた魯迅を学校当局が呼んで院生に特別講義をしてもらったという事実からも分かる。1931年4月のことで、第一次上海事変が起きるわずか10カ月前だ。中国人の若い同志5人を国民政府によって生き埋めにされたことを語る魯迅の目に、きらりと光る涙が…。講義を聞いた院生のそんな言葉が、「上海東亜同文書院」の中に紹介されている。

 今回の上海訪問で初めて知った編集者の生まれた場所、山蔭路には、魯迅も住んでいたらしい。上海を語るうえで欠かせない有名な内山書店もすぐ近くにあったようだ。店主・内山完造の人物にひかれて、書店には魯迅のほか尾崎秀美、スメドレー、東亜同文書院生、さらには日本からの著名作家たちなど日中双方のさまざまな人々が出入りしていた。これまで内山書店すら知らなかった不勉強な編集者には、驚くことばかりだ。

 編集者の父が東亜同文書院に入学する2 - 3年前に、尾崎秀美もゾルゲも上海から日本に移ってしまう。これは少々残念という気もしたが、魯迅が亡くなったのは1936年。父が2年生だった時だ。はるか昔の話と思い込んでいたこの時代が、にわかに近く感じられてきたのも、上海訪問のおかげということだろう。

関連記事

ページトップへ