レビュー

編集だよりー 2012年10月30日編集だより

2012.10.30

小岩井忠道

 「なかのZEROホール」に着くと、受付に着物姿の女性が並んでおりいつもと違う。周囲を見渡して、何度か来たことがあるのは小ホールで、別に大ホールがあると初めて知った。今夜(26日)の目当ては、春風亭小朝と三遊亭小遊三の二人会だ。人気者二人をそろえて小ホールは狭すぎる。大ホールでも十分チケットはさばける、ということだろう。実際、一番後ろの数列に空きがあったくらいで、9割以上の席は埋まっているように見えた。

 大店(おおだな)に新しく若い女中さんが入ってくる。寝ている2階の部屋に忍び込もう。それぞれよからぬ思いを抱いた番頭ら3人が、次々に失敗して散々な目に…。小遊三らしい噺(はなし)に何度も噴き出す。「禁演落語」を思い出した。日中戦争が長期化し、太平洋戦争に突入する直前の1941年、戦時にふさわしくないとして落語家たちが自ら封印してしまった53の噺である。今では憲法で禁じられている検閲(権力を持つ側が表現の自由を抑圧する行為)をされる前に、自己検閲してしまったわけだから、落語界にとっては思い出したくない歴史だろう。これら53の演目を葬った「はなし塚」というのが浅草の瀧山本法寺境内にあるそうだ。幸い敗戦後の1946年、禁演落語復活祭なるものが催され、今は再びこれらの噺にも笑い転げていられる。

 小遊三の話術に感心しながら、どうもこれはあの53の噺に入っていたのでは、と思った次第だ。帰宅後調べてみたらやはりその通りだった。「引っ越しの夢」という噺である。

 一方、小朝の方は、ほとんど聞き取れず、結局、どういった内容かさっぱり分らないまま終わってしまう。いよいよわが難聴も補聴器の世話にならなければならないところまで来てしまったか、と少々、落ち込む。既にシンポジウム会場などで講演がしばしば聞き取れず往生しているが、落語を楽しむにも不自由するというのは、寂しい。

 帰り際、ロビーに張り出された紙を見ると「豊志賀」という演目名が書かれている。インターネットで調べたら、三遊亭円朝作「真景累ヶ淵」の中の一部という。桂歌丸が演じたCDが発売されたという記事をみた覚えがあるが、全部演じると10時間になるという大作だ。豊志賀というのは、非業の死を遂げる女性の一人である。怪談だから小朝も声を張り上げるわけにはいかなかったのだろう。それにしても30分間、何の話かさっぱり聞き取れなかったというのは、しゃくだ。どうにも気になって翌土曜日、近くの図書館で「三遊亭円朝全集」を借りて、豊志賀が出てくる初めの方を読んでみた。

 なるほど、二人会で先に小朝が演じ、小遊三を後にしたのはもっともだ、と合点する。実力者しか演じられないような大作とはいえ、活字で読んでも笑えそうなところなど一つもない。大勢のお客さんに満足して帰ってもらうには、小遊三で大いに笑ってもらった余韻があるうちに、と考えたのだろう、と。しかし、円朝が活躍していたころの落語ファンというのは、落語に多様な楽しみを求めていたものだ。ただ笑えるだけの噺だけでなく、恐ろしい怪談を聞くのも楽しみ、ということだろうから。

 実は、円朝全集と共に借りてきたもう1冊の本がある。こちらは、土日の二日間ですんなり読み通してしまった。浪花節で有名な二代目広沢虎造が書いた「ご存知! 清水次郎長伝」である。小朝と小遊三を聞いた翌日の早朝、寝床に入ったままNHKラジオの早朝番組を聞いていたところ、浪曲・虎造節保存会会長という元NHKアナウンサーの方が虎造の魅力について語っていた。「昭和○○年の芸能人人気ランキングで、2位の美空ひばりを押さえて1位になった」「5,000人入る浅草・国際劇場を4日連続の昼夜2興業で毎回満員にした」など、信じがたい話が次々、出てくる。虎造は実は声量はあまりなかった、という話も意外だった。あれほどの人気を集めた背景には、マイクロホンなど音響技術とラジオ放送という時代の後ろ盾もあったということだろうか。

 確かに浪曲は、幼少時ラジオなどからよく流れていた。「旅行けば 駿河の路に 茶の香り…」という清水次郎長伝で有名な名調子は耳にしっかりと残っている。

「飲みねえ、飲みねえ、飲みねえ、鮨食いねえ…、江戸ッ子だってねえ」
「神田の生まれよ」
「そうだってねえ。そんなになにかい…」

 森の石松と渡し船の客との掛け合いなど、どこで見たか聞いたか、も忘れるほど何度も聞いて記憶にこびりついている。幼少時によく観た東映時代劇でも、次郎長物は何本もあったはずだ。しかし、中村錦之介演じる森の石松が策略にかかって虐殺される場面しか、思い出せない。耳に残る記憶というのもまぶたに刻み込まれた記憶以上に確かなこともある、ということだろう。

 この本には親切なことに、虎造自身による「ご存知! 清水次郎長伝 名調子さわり集」というCDもついている。本を読み終わった後、一杯飲みながら、こちらも堪能した。

 しかし、芸能人の人気ランキング1位という大スターを出したにしては、その後の浪曲の人気が落語や講談の陰に隠れてしまっているように見えるのはどうしてなのだろうか。「広沢虎造は作家だった」という布目英一氏の解説を読んで、浪曲が講談や落語に比べると後発の大衆芸能と知る。「清水次郎長伝」も幕末から明治にかけての講釈師、清竜の作った講談が基になっているそうだ。これを講釈師、三代目神田伯山が完成し、それを虎造が浪曲にうまくつくりかえたという。著作権などあいまいな時代だったにしても、やはりいざこざはあったらしい。虎造に講談「清水次郎長伝」を教えたとみられる伯山の弟子は、伯山の怒りを買って、東京にいられなくなった、といったことも書いてある。

 「飲みねえ、飲みねえ…」で始まる前述の石松と江戸ッ子の掛け合いは、司馬龍生という落語家からの助言で取り入れた、という。虎造は作家であると同時に脚本家としても有能だったということのようだ。

 結局、自前で創出した演目が多くなかった—。そんな理由はなかっただろうか。「講談にとってはひさしを貸して母屋(おもや)を取られた形」(布目英一氏)にまで流行った浪曲が、隆盛を保てなかったのは…。

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