「受賞者は一人か」。25年前にノーベル医学生理学賞を受賞した利根川進氏の自宅に喜びの声を聞こうと電話をかけた某全国紙の記者に、氏が問い返したという話がある。新聞社から電話がある前に、ノーベル財団かカロリンスカ研究所から受賞の知らせが届いているはずだから、新聞社の記者に聞くまで知らなかったとはちょっと考えにくいが…。
実は、氏が受賞する1987年の1年か2年前、マサチューセッツ工科大学の研究室に図々しく電話を差し上げたことがある。「先生、今年あたり受賞されるのではないでしょうか」。氏の研究業績などほとんど知らなかったにもかかわらずだ。「まあないでしょう」。あっさりした答えの意味に、しばらくたってから気づいた。1984年に欧州の研究者3人が「免疫系の発達と制御における選択性に関する諸理論およびモノクローナル抗体の作成原理の発見」という業績で、医学生理学賞を受賞したばかりだったからだ、と。
免疫分野で続けての授賞はないだろうから、まず今年は無理、と氏は考えたようだ。実際その通りだった。しかし、これら3人の研究者が受賞したわずか3年後に「抗体の多様性に関する遺伝的原理の発見」で医学生理学賞に輝く。受賞する時は単独のはず、と自信を持っていたことは十分、想像できる。
山中伸弥京都大学教授が利根川氏以来日本人では二人目となる医学生理学賞を受賞したことで、ノーベル医学生理学、物理学、化学賞を合わせた日本人受賞者は16人となった(米国籍の南部陽一郎氏を含む)。ノーベル賞の受賞者は、毎年各賞とも3人以内と決まっている。日本人の受賞者の中で、単独で受賞したのは利根川氏と湯川秀樹氏の二人しかいない。山中氏も単独受賞でよかったのでは、と思う人もいるだろうが、とにかく一人だけで受賞することがいかに大変なことかが分かる。
10日ほど前、郷里で「水戸大使の会」の総会があった。大使という委嘱状を高橋靖水戸市長からいただいているものの、水戸市の観光振興を願う応援団のようなものだ。もちろん報酬などない。発足以来の会長は、これまで逆らったことがない高校の先輩だ。年会費を払い、いろいろな会合に顔を出していれば済むだろう、と言われるままに副会長の一人になっていた。ところが総会で、会長が名誉副会長に、副会長兼事務局長が新会長に就任し、編集者が事務局長の後任にされてしまう。事務局長の一番大きな役割とは、名ばかりの会員も少なくない中で、年会費をできるだけ集めることらしい。気が小さな人間には何とも苦手な任務を負わされたことになる。
総会の後は毎年、偕楽園で中秋の名月を眺め、野だてを楽しむ。しかし、今年は台風の接近で中止となってしまう。水戸市長、渡辺政明水戸市議会議長をはじめ、市、市議会、市商工会、市観光協会などの幹部たちとの懇親会(費用は参加者負担)は予定通り開かれた。隣に座った商工会・観光協会幹部の趣味が競馬と知る。40人で1頭の馬を所有する共同馬主ということだった。10数億円の賞金を稼いだ馬を持ったことがあるというから、もうやめられないだろう。
馬主になるなど夢にも考えたことはないが、「馬券で稼ぎたい」とある時期真剣に考えた口だ。馬事公苑そばにある日本軽種馬協会から、有名種牡馬がたくさんいる北海道の静内や浦河まで取材に行ったこともある。来年が午(うま)年という1977年、正月用の特集記事「サラブレッドの血統」を書くための取材が名目だが、半分は、エビデンスベースの馬券戦術を究めたいという私心からだ。心がけが悪かったからだろうか、結局、究明できたのは、「血統をいくら調べたところで馬の能力など分かりはしない。走らせてみなければ」ということだけだったが…。
「全てのサラブレッドの父親をさかのぼるとわずか3頭しかいない」。ノーベル医学生理学賞の発表があった数日前、ラジオで女性アナウンサーだったかが言っていた。サラブレッドの血統に関心がある人間なら、大体は先刻承知の事実だ。
考えてみると、自然科学の世界も似たところがあるような気がする。数多い研究者の研究テーマも、源をたどると数少ない人物によって成された画期的な発見に収れんしてしまうのではないか、と。
ちなみにサラブレッドの父祖は3頭しかいないものの、3頭の中ですら遺伝的優劣ははっきりしている。編集者が取材した1977年時点で既に、ダーレーアラビアンの遺伝子を最も濃く引き継ぐ馬が圧倒的に多かった。世代を重ねるごとにこの傾向は強まっていると思われるから、今のサラブレッドたちの中に残る他の父祖2頭のDNAはますます希薄になっているということだろうか。