よく言えば「余裕がある」、別の言い方をすると「生産性はあまり高くない」。新聞、通信、放送といったオールドメディアにはそんなタイプの記者が珍しくなかったように思う。編集者自身、入社が決まったとき、先輩記者から「10を聞いて1だけ書くのが記者」と言われ、最後までそれを忠実に守ったものだ。「そんな時代もあったね、と…」。中島みゆきの「時代」の歌詞をときどきふっと思い出すことがある。そのたびに自身の記者生活が思い起こされて、苦笑してしまう。
この人も多分、並外れた昔の記者ではないか。勝手に想像して、敬服している毎日新聞の牧太郎・専門編集委員が、夕刊のコラム「大きな声では言えないが…」で、得意分野の競馬についてまた面白いことを書いていた。名馬シンザンを育てた武田文吾調教師についてである。武田氏には編集者も思い出がある。あれはウマ年の前の年だった。西暦と干支の一覧が載っているウェブサイトで調べたら1977年ということになる。
武田文吾氏に取材のアポイントを得て、京都競馬場に東京から出かけた。どうせ出張するなら、と「菊花賞」の日にしてもらった。クラシックレースの当日ということなのだろう。控え室の調教師は皆おそろいの派手な服と帽子を着用していた。武田氏は、すぐ分かってくれたのだが、インタビューはなかなか始められなかったことを思い出す。ちょうど別の調教師と将棋の最中で、勝負がつくまで待たされたからだ。
通信社の配信する記事にはいくつかの種類がある。正月の紙面用の記事は生ニュース以外、事前に用意しているものばかりから成る。あの分厚い紙面を埋めるために新聞社に配信する記事に対しては、取材期間もたっぷりあてがわれ、取材費用も特別予算から出る。「すべてのウマの血統がはっきりしているサラブレッドを対象に遺伝の不思議を探る。来年は午(ウマ)年だし」という提案が、さほどの論議もなく通ってしまった。競馬に詳しい人間にはよく知られた事実だが、世界中でサラブレッドと認められている馬は、源をたどると父親はたった3頭のアラブ馬に収斂してしまう。速い馬をつくるために種馬として使われた馬はほかにもたくさんいたのだろうが、3頭以外の系列は消えてしまったということだ。
さて、取材の話に戻る。北海道の馬産地である浦河、静内に出張、種牡馬となっていたシンザンやトウショウボーイといった名馬を会い、ついでに東京大学の附属施設も回ってきた。ここに1969年のダービー優勝馬「ダイシンボルガード」が寂しく余生を送っていたからだ。引退後、種牡馬として買い手がつかなかったらしく、東京大学が引き取って育てていた。この附属施設が北海道のどこにあったのか東京大学のホームページを探しても見つからない。閉鎖されてしまったのだろうか。
その後、東京の中央競馬会や何カ所かの競馬関連先を取材し、材料は十分集まったのだが、前述したように取材期間もたっぷりあるし、取材費ももっと使ってよさそうである。シンザンの名馬ぶり、調教時の思い出などを武田調教師に語ってもらい、2、3行挿入すれば記事の体裁もよりよくなるだろう、とさらなる出張を思いついたというわけだ。
牧太郎氏のコラムには、武田氏の名文句の数々が紹介されている。インタビューでは聞いた覚えのない話ばかりだ。取材者として年期も余裕もまるで違う、ということだろう。