「主人は24日に天国に参りました」。前夜、遅く帰宅したところ、大河原重久・元米ロチェスター大学脳神経外科教授の夫人、きよみさんから留守電が入っていた。大河原氏ご夫妻に初めてお会いしたのは24年前のことだ。
「アフリカミドリザルの脳にヒトの神経細胞腫瘍から取り出した培養細胞を移植したところ、最長で270日、脳の中で生き続けた」。そんな研究成果を、通信社記者時代にニュースとして紹介させていただいたのがきっかけだ。科学誌「サイエンス」に論文が掲載されるのを知って、雑誌発行の直前にインタビューした。
大河原氏は愛知県の山村に生まれ、名古屋大学医学部を卒業した後、若くして渡米する。氏の世代では珍しいことではないが、国内に戻るポストが用意されていない“片道切符”の海外渡航だ。米国で脳神経外科専門医の資格をとる。大学病院を含む日本の病院勤務医の長時間労働も相当なものと聞くが、ロチェスター大学医学部の脳神経外科教授は3人で、自分が担当する週は1週間まるまる執刀の責任を負う。それが3週ごとに回ってくる、と聞いて驚いたことを思い出す。
激務の半面、趣味のスケールも大きい。ニューヨーク州の山に何日かこもっての鹿狩りが楽しみ、ということだった。「大きな声では言えないが、三八式銃」。どんな銃を使うのか、という問いに対する答えだった。後で調べてみると、三八式歩兵銃は日露戦争から太平洋戦争まで使われた日本軍の主力銃である。太平洋戦争中、日本軍が残した銃を米兵が持ち帰り、戦争後も狩猟好きの米国人たちに愛用されているということだった。
大河原氏には、脳神経外科に対する将来像があったのだろう。手術といえば脳腫瘍部などを取り除くのがもっぱらだが、いずれは逆に脳内に組織を移植して治療するようになるはず、という…。アフリカミドリザルを使った研究は、パーキンソン病やアルツハイマー病など脳組織の異常に起因する病気の治療法につなげることを狙ったものだった。すぐヒトで試みるわけにはいかないので、まずは同じ霊長類のアフリカミドリザルで、と。動物段階だったにもかかわらず日経新聞が夕刊のトップでこの記事を掲載してくれたから、目新しい研究成果だった、ということだろう。
ところが、そのわずか半年後のことだ。「10人のパーキンソン病患者の脳に患者自身の副腎細胞を移植したところ、途中別の原因で亡くなった2人を除く全員に症状の改善が見られた」。メキシコ自治大学教授の論文が医学誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に載る。たまたま、この論文の査読者の一人が、大河原氏の共同研究者である米国人医師だった。「近々、メキシコの研究者の興味深い論文が載る」と教えてくれたので、メキシコシティまで出かけてその教授にもインタビューしたものだ。
脳に移植されたのが患者自身の体の別の組織。この、意義は分かる。他人の臓器を移植する場合について回る倫理的な問題を回避できるし、拒絶反応の心配もないからだ。しかし、なぜ副腎細胞でなければならなかったのかについては、記事に書いた記憶がない。質問したものの答えがよく理解できなかったか、最初から聞かなかったかのどちらかだったのだろう。とにかく、大河原氏たちが、まずは動物から研究データを積み上げようとしていたころ、メキシコ自治大学の教授は実際の患者に試みていたということだ。米国とメキシコでは医療についての考え方にもえらい差があるものだ、と妙に納得したことを覚えている。
メキシコ人教授の論文が「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に載った翌日、「ニューヨーク・タイムズ」「ワシントン・ポスト」も結構大きな記事として、この臨床成果を紹介していた。日本の各紙はその1週間ほど前に、編集者が書いた記事を載せている。名だたる米国の高級紙を出し抜いたのは、後にも先にもこれ一度きりだ。
大河原氏夫妻は、氏がロチェスター大学教授を退職したのを機に帰国し、きよみ夫人の故郷である知多市に住まわれる。しかし、母国での生活は不本意なことが多かった、としばらくしてから知る。医院を開き、日本人患者の治療にも当たりたいという望みは、患者が奪われることを警戒した地元医師会の反対に遭い断念せざるを得なかった、という。
その後、アルツハイマー病を患い介護療養型医療施設での生活が何年も続くことになる。数年前、訪ねた時は、歩くことも会話も全くできなかったものの、表情は常人と変わらないように見えたのだが…。
パーキンソン病の患者に患者自身の副腎細胞を移植してみる試みは、その後効果がないか、あっても一時的でしかないということで下火になっているはずだ。メキシコ自治大学で治療効果があったと報告された患者たちも、しばらくすると元の症状に戻ってしまったのだろう。
アルツハイマー病に対しても、脳への細胞移植による治療法は実現していない。大河原氏のために、ロチェスター大学時代の友人医師たちが、米国のいろいろな薬を送ってくれたそうだが、結局、薬物による治療も確たる効果は見られなかったようだ。
きよみ夫人によると、大河原氏の葬儀は親族だけで行い、ロチェスター大学時代の友人たちにもまだ連絡していないという。
「自家用航空機を持っている方もいて、連絡したらすぐ飛んで来るかもしれませんので」ということだった。