レビュー

編集だよりー 2012年7月25日編集だより

2012.07.25

小岩井忠道

 福島第一原子力発電所事故をめぐる政府の事故調査・検証委員会の最終報告書が公表された。民間事故調、国会事故調と並び、当事者以外の調査チームによる3つの報告書が出そろったことになる。インターネットの発達、政権交代がもしなかったなら、今回の事故でとにもかくにもこれだけの調査が行われ、その詳細な結果が公にされることはあり得ただろうか、という思いが強い。1978年ごろから原子力発電所の報道に関わった編集者と同じ世代の科学記者には、恐らく同じ感慨を抱く人が多いのではないかと想像する。とにかく、原子力に関しては長い間おおっぴらにされないことが非常に多かった。

 ことさら言うまでもないことだろうが、自民党一党支配、あるいは自民党主導の政権が続いていたころ、最も怖いのは自民党で、警戒すべきはライバル官庁と考える官僚が多かったように思える。「大事な情報ほど、まずは国民に知らせるべきだ」などとはなかなか思ってくれないから、記者が知りたい情報ほど官僚の口は固くなったものだ。

 電力会社は電力会社で、怖いのは主要なお客さんである国民より、通産省(現経産省)や自民党という考えが、ずっと染みついていたように見える。

 編集者が原子力取材を始めたころの大きな関心事は、原子力発電所の安全問題以外で言えば原子力船「むつ」開発という大失敗プロジェクトの後始末だった。科学技術庁(当時)がいかにこの後ろ向きの仕事に多くの人材と労力、それに予算を費やしてきたか…。今でもよく考える。当時、官僚の口はとてつもなく固く、肝心なことの多くはいまだに公にされていないのではないだろうか。記者に話して記事にされたら、自民党科学技術部会の議員や関係自治体の首長から怒られることはあっても、いいことなどない、という思いだったのだろう。

 数少ない例外は、編集者に「『むつ』開発の意義はもはやない。もし座礁でもしたら船体とともに原子炉も傾いて冷却水が入らず炉心溶融という危険がある。それだけ考えても、実用化など無理」といったある科学技術庁幹部くらいだったろうか。「むつ」から原子炉が撤去されて、ようやく原子力船開発プロジェクトに幕が下ろされるまでには、それからさらに10数年の月日を要している。

 福島第一原発事故が起きてわずか3カ月後に発行された「津波と原発」(佐野眞一著、講談社)の中に、当欄にも寄稿していただいた福島県出身の開沼博氏(東京大学大学院博士課程在籍、2011年9月29日オピニオン「3.11以前からの『フクシマ』の目撃者として」参照)との興味深いやりとりが載っている。

 「炭鉱労働者には『炭坑節』が生まれたのに、原発労働者には『原発音頭』は生まれなかったのは、なぜか」という佐野氏の問いに対し、開沼氏の答えは次のようだった。
「彼らは危険だということをわかりながら、自分を騙(だま)しているようなところがあって、その負い目が差別性につながっているような気がしますね」

 続く佐野氏の問い「なるほど、その負い目が歌や踊りを生み出せなかった。でも、危険という意味では炭坑労働も危険だよね。原発労働と炭坑労働のこの差異はどこにあるんだろう」に対する答えは次のようだ。

「炭鉱労働者が感じる危険さは、漁師が感じる危険さに似ていると思います。誇れる危険さというのかな」

 炭鉱労働者や漁師の人たちと比べたら楽なものだろうが、われわれも頭脳労働というよりは肉体労働。そんな記者稼業を長年続けた編集者には、実によく分かる指摘だ。「早く切り上げて仲間とワイワイやり合いながら一杯飲みたい」と思いながら、ニュース原稿を書いたことがいかに多かったことか…。

 次のやりとりもまた腑(ふ)に落ちるものだった。

佐野「東大出身のエリート原発労働者ともお付き合いがあると思いますが、彼らにも“疎外された労働”という意識があるんですか」
開沼「中央制御室で働いている連中にも、事故前から、誇る言葉なんかなかったですね。ただひたすら、トラブル対策をやっているって言ってましたね。すごいリスクが前提としてある仕事なわけですよ」

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