「エーッ、また」。この日の朝刊で「東電原発故障隠し」「東電原発データ改ざん」といった大見出しを目にした読者の大方の感想ではないだろうか。
東京電力といえば、いうまでもなく日本を代表するような企業である。東電の原子力発電所で働きたい、正社員として。そう思っても、簡単にはなれない。その東電で、どうしてこのような不始末が続くのだろうか。
長らく科学ニュースを伝える現場にいた関係で、原子力にかかわっていた人たちに知り合いが多い。だからかもしれないが、原子力というとすぐに連想することがある。“原子力村民”=原子力技術者の「孤独感」といったものだ。
誠におこがましい話であったが、ある原子力に関係する組織の情報公開委員というのを務めたことがある。いろいろなところから突きつけられる情報公開要求に対し、「これは公開すべきだ」、「この個所はこれこれの理由で、個人名を伏せてよい」といったことを判断して、助言する。法律学者の委員がたくさんいたので、会合でほとんど発言しなくてすんだのが何よりだった。
金に絡む件があったので、この組織の人に会合(公開)の場とは別の機会に、尋ねてみたことがある。「(原子力施設を抱える)○○県に、この組織からだけでこれまでどのくらいの金が出ているのか」
数字は忘れてしまったが、やはり相当な額だった、という記憶がある。無論、法律に基づいた支出である。しかし、出す方も、受け取る方も詳細を明らかにしたがらなかったせいか、今でも一般の人はおそらく実態をほとんど知らないと思われる。どのような名目でどれくらいの金が、自治体に入っているのか。
仮にその地域に原子力施設がなくなってしまったとしたら、自治体の財政が傾くくらいの規模だろう。雇用その他、間接的な影響も相当あるに違いない。
しかし、「私、原子力の味方です」と自治体の長が、公の場で明言したような話はほとんど耳にしたことがない。そう言っている長の声が、新聞や放送で伝えられないだけかもしれないが、いずれにしろ世間に伝わらなければ、ないのとほとんど同じだろう。
「何をやっても批判されるだけだから」。原子力に限らず、安全にかかわる仕事に就いている人々の孤独感が、そのうち絶望感に深化しなければよいが。
そんな心配をするのは編集者だけだろうか。